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 ■ 寺院・文化財等の解説文
 金沢市提供のオープンデータ〔寺院・文化財等の解説文〕を利用しています。
寺院・文化財等の名称と解説文です。

[茶色の旗] 寺町寺院群の寺院「静音の小径」掲載の説明
[桃色の旗] 小立野寺院群の寺院「いし曳の道」掲載の説明
[赤色の旗] 卯辰山山麓寺院群の寺院「心の道」の掲載説明
[灰色の旗] その他の寺院など
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No. 名称住所電話 
 大蓮寺金沢市野町2-1-14 
 宝池山と号し、浄土宗に属する。
 開山は天正十一年(一五八三)、七尾西光寺広誉上人を招請し御馬屋町(現、木ノ新保)に創建され、後現在地に至る。
 当寺の二世は、信長の従兄弟、貞安上人である。文化十二年(一八一五)に類焼にあったが、再建され今日に至る。
 当寺は、加賀藩初代藩主・前田利家の第四女・豪姫の位牌所としても知られる。豪姫は生後間もなく豊臣秀吉の養女となり、十五才で岡山城主・宇喜多秀家に嫁したが、西軍についた秀家は関ヶ原の戦いに敗れ、後に八丈島に流される。
 豪姫は合戦後、金沢に来て余生を送つた。寛永十一年(一六三四)に亡くなった折には、当寺で葬儀が執り行われた。野田山にある豪姫の五輪塔の墓を今も守り、豪姫の位牌、念持仏である聖観音が寺宝として伝わっている。
 境内には豪姫と秀家の供養塔をはじめ、茶商堂後屋、医師大庭探元、儒者藤田維正らの墓がある。
■寺町寺院群(「静音の小径」掲載分)
 妙慶寺金沢市野町1-1-12 
 安養山と号し、浄土宗に属する。
 宗良親王(佛眼上人明心法親王)が、越中国射水郡牧野村(富山県高岡市)に一の字の草庵を結び、仏門に入り安養山極楽寺と号したことに始まる。
 開山は、寂蓮社城誉円阿であり、もと越中射水郡牧野村安養山極楽寺の僧であった。
 天正十三年(一五八五)前田利家が越中国(富山県)の佐々成政と戦った時、松平康定は牧野村極楽寺を本陣にした。当時前田利家の家臣であった康定は佐々の敗北後は後の二代藩主利長の家臣となり、極楽寺を康定の菩提所としていた。康定が越中から金沢に移ったのに伴つて、金沢へと寺を移した。当初、極楽寺は康定の屋敷内にあったが、康定の母・妙慶尼の菩提寺に取り立てられ、寺号も妙慶寺と改めて、元和元年(一六一五)、三代藩主・利常から現在地に寺領を拝領し、移った。
 その当時、末寺として成学寺、三光寺、弘願院と塔司として養寿院、宝珠院、慈眼院があったが、塔司の各院は廃滅し、残りの寺院は現在は独立し、現存している。
 また、当寺は松平家の菩提寺で、江戸末期の家老大貳、ミュンへンオリンピック金メダルの男子バレーボール監督・松平康隆、日本の初代国連大使・松平康束などの先祖の墓がある。
■寺町寺院群(「静音の小径」掲載分)
 成学寺金沢市野町1-1-18 
 高養山と号し、浄土宗に属する。
 正保四年(一六四七)、松平又右衛門夫人が、加賀藩三代藩主・前田利常に請うて、梵宅上人を招き、もと玉泉寺の寺領に亡夫の菩提所として建立したのが起こりである。寺名は、又右衛門の戒名である成学居士から名付けられた。
 本堂は、創建当初のままの切妻造・平入・桟瓦葺、向拝付き、書院造り的な要素を持った、江戸初期の建築様式が見られる貴重な建物である。
 また、管原道真が祀られ、厄除け・学問成就の神として信仰され、両侍の木造胡粉彩色風神雷神像は、鎌倉時代の特色が認められる見事な造りである。
 境内には、俳人・堀麦水らが宝暦五年(一七五五)に建てた「あかあかと日はつれなくも秋の風」の句の刻まれた芭蕉の句碑「蕉翁墳」がある。
■寺町寺院群(「静音の小径」掲載分)
 真長寺金沢市野町1-2-2 
 稲荷山と号し、高野山真言宗に属する。
 開山は、慶長十五年(一六一〇)、常陸浦和王蔵院の弟子・元養が関束より金沢に来て建立したと言われる。
 元和六年(一六二〇)、金沢城内から出火し、再建時に城内にあった稲荷社が、加賀藩三代藩主・前田利常の命によって当寺に預けられた。当時の真長寺は、香林坊の富永小左衛門屋敷跡に改めて寺地を拝領し、寺を建立した。寛永十六年(一六三九)、現在地に移った。
 宝暦十二年(一七六二)、隣家から出火し、付近一帯の二百六十九軒が類焼するという大火であったにも関わらず、当寺の境内にあった稲荷社は無事であった。そのため、稲荷社の威光であるという話が、「真長寺稲荷霊異記」に伝えられている。
 明治元年(一八六八)の神仏混淆禁止の折、稲荷社は神明神社に移されたが、ご神体は当寺に秘仏として祀られ、現在に至る。
 また、当寺に安置してある愛染明王は、弘法大師作と伝えられている。かつて、京都束寺の愛染堂の本尊として祀られていたが、金沢の中村型部家正の供養するところとなり、承応年間(一六五二~五五)の初め当寺に寄付され、現在に至っている。
■寺町寺院群(「静音の小径」掲載分)
 本長寺金沢市野町1-2-8 
 長遠山と号し、顕本法華宗に属する。
 享徳二年(一四五三)、越中砺波福光城主・石黒氏が、菩提寺として創建したと伝えられる。その後、一向宗との抗争で何度も焼失、蓮沼・守山・富山などに移転・再建を繰り返し、天正十三年(一五八五)に金沢へ移った。元和元年(一六一五)現在地に寺領を拝領し、再建した。
 現在の本堂は、宝暦十二年(一七六二)出火により焼失の後、文化九年(一八一二)学僧・日鑑らにより再建されたもの。
 境内裏庭には、推定樹齢二百年余り、樹高九メートルの大楓(いろはかえで)があり、昭和五十六年、金沢市から保存樹に指定された。
 境内には、芭蕉の「春もややけしきととのふ月と梅」の句碑が建つている。
 境内墓地に、加賀藩の農制書「河合録」を著した河合祐之の墓、長尾流躰術中興の祖・雨夜覚右衛門の墓がある。
■寺町寺院群(「静音の小径」掲載分)
 三光寺金沢市野町1-3-5 
 真如山と号し、浄土宗に属する。
 開山は、小松仏徳寺の学誉超竜と伝えられるが、その年代は定かではない。
 寛永十二年(一六三五)、二世願誉の時、加賀藩三代藩主・前田利常の命により寺地四百歩を拝領し、現在地に建立した。
 明治十一年(一八七八)、当時の内務卿・大久保利通を束京・紀尾井町で暗殺した島田一良や長連豪らの集会所であったことで知られる寺でもあり、事件の首謀者たちはこの寺を本拠地としていたために、「三光寺派」と呼ばれた。
 山門は、平成三年(一九九一)に仁王門として再建された。
■寺町寺院群(「静音の小径」掲載分)
 因徳寺金沢市野町1-3-69 
 霊寶山と号し、真宗大谷派に属する。
 開山は、慶長十二年(一六〇七)、教順と記されている。
 寺地は、慶長十二年(一六〇七)、加賀藩二代藩主・前田利長から賜ったものである。
 六本柱の山門、本堂ともに創建の年代に近い江戸初期の様式を残しており、本堂の向拝虹梁および蟇股が趣深い造りになっている。
 本尊は、一尺七寸の阿弥陀仏像である。
 境内には、狂歌で名をはせた瀬波屋鶏馬の墓がある。
■寺町寺院群(「静音の小径」掲載分)
 香林寺金沢市野町1-3-15 
 神照山と号し、曹洞宗に属する。
 慶安四年(一六五一)、加賀藩士であった青木五兵衛が加賀藩三代藩主・前田利常に願い出て現在地を拝領し、長岩和尚を開山として創建された。
 青木は、利常の恩に報いるために、御影堂を造り、利常の位牌を安置した。また、青木家の家伝・管原道真の画像を納めた。ところが、何時の頃か神殿より出火し、寺も類焼、御影堂も焼失している。
 なお、天保四年(一八三三)作の不動明王は、霊薬不動尊として知られている。
■寺町寺院群(「静音の小径」掲載分)
 少林寺金沢市野町3-1-39 
 嵩獄山と号し、臨済宗に属する。
 寺記によれば、開山は千岳宗仞(そうじん)禅師で、寛永十五年(一六三八)、伝馬町に小庵を結び、それを少林寺と名付けたことが起こりと言われている。
 正保三年(一六四六)、現在地に移り、承応二年(一六五三)、加賀藩三代藩主・前田利常から大きな寺院に建て替えるよう命ぜられた。千岳禅師の隠居所でもあった。
 寺宝として、十一面観音像や管原道真の像があり、本堂内には、十三代藩主・前田斉泰から授かったといわれる「前田斉泰公奉納」の文字が刻まれた精密な常夜灯がある。
 境内には、名僧として親しまれ、宝勝寺や伝灯寺も建立した当寺の開山・千岳の墓がある。
 また、当寺所有の梵鐘は、延宝五年(一六七七)、宮崎寒雉によって作られたもので、名鐘のため、第二次世界大戦の折の金属品回収からも免れることができた。高さ百三十八センチ、口径七十七センチの梵鐘は、音色が美しいことで知られている。
■寺町寺院群(「静音の小径」掲載分)
 千手院金沢市野町3-1-26 
 長久山と号し、真言宗に属する。
 天長年間(八二四~三四)、坂上田村麻呂の末裔である衆愛法印が京都清水寺の十一面千手観世音を勧請し、鶴来に創建したと言われている。
 その後兵火にあい、河北郡の福久に移り、元亀三年(一五七二)勝誉の時に、戸室山頂に飛櫓権現(不動明王、白山権現、愛宕権現を勧請)を奉安し、山麓の田ノ島村に寺坊を再興した。
 慶長5年(一六〇〇)、金沢城近くの兼六坂に屋敷を拝領し、移転したが、元和年間には再び城内拡張のため現在地に移転した。
 寺宝である十一面観音は、前田家より預かったもので、加賀藩初代藩主・前田利家はこの寺を崇敬し、末森の合戦以来、加賀藩歴代藩主の祈願所となった。本堂は、もとの護摩堂であった。
 当寺の工芸品「経筒」は、精巧な毛彫で鶴亀と松竹梅の吉祥紋様が施された美しいものである。前田家からの祈願書状が入っていた。
■寺町寺院群(「静音の小径」掲載分)
 宝勝寺金沢市寺町5-5-76 
 太白山と号し、臨済宗に属する。
 禅僧として著名な千岳宗仞(そうじん)禅師が、美濃(岐阜県)から金沢へ来て小庵を結んでいたが、寛永八年(一六三一)、現在地に寺地を拝領し、創建した寺。
 千岳禅師は、とくに加賀藩三代藩主・前田利常からの信頼が厚く、衰弱していた伝灯寺の復興を命ぜられた。また、能筆で文章力にも優れていたため、利常から小松の梯天満宮の棟札を揮毫するよう命じられたりした。千岳は後に、隠居所として三間道の少林寺を建て、与えられたという。
 山門および本堂は、創建当初の建物と考えられる。
■寺町寺院群(「静音の小径」掲載分)
 承証寺金沢市寺町5-5-70 
 本隆山と号し、法華宗に属する。
 本山は京都本能寺。
 天正十七年(一五八九)、加賀藩士であった服部佐渡守が加賀藩初代藩主・前田利家に願い出て尾張町に寺地を拝領し、日種上人を開山として創建した。後、古寺町(現・片町)を経て、元和二年(一六一六)頃に泉野寺町(現・寺町)の現在地に移る。
 寺内の鬼子母神に祀られている鬼面は、能美郡安宅浦の海中より浮かび上がったものとして秘蔵されてきたもので、霊験があるといわれている。
 江戸時代初期の画家、俵屋宗達の晩年の作とされる「萩に兎」が本堂板戸に残されている。
 当寺墓所には、幕末の元治の変(一八六四)に際して勤王の説を唱えて処刑された福岡惣助の墓などがある。
■寺町寺院群(「静音の小径」掲載分)
 金剛寺金沢市寺町5-6-45 
 永亀山と号し、曹洞宗に属する。
 開山は、天正年間(一五七三~九二)、前田大炊の第三子が出家し、越中(富山県)射水郡守山の海老坂に創建したものと伝えられる。
 慶長十二年(一六〇七)、犀川一ノ橋(現・犀川大橋)の近くに奥村周防(長元)が寺地を拝領し、この寺を移転、さらに加賀藩三代藩主・前田利常の時代に御用地となり、現在地に移った。
 山門、本堂等の建物は、江戸時代後期以降のものである。
 また、本堂には、能登末森城の守り本尊であったと伝えられる観世音菩薩像が安置されている。
■寺町寺院群(「静音の小径」掲載分)
 国泰寺金沢市寺町5-6-38 
 摩頂山と号し、臨済宗に属する。
 寺記によれば、はじめ当寺は公儀町(現・長土塀)にあったが、創建の年代は明らかではない。当初は越中射水郡太田村の国泰寺の別院であったため、本寺の住職が当寺の寺務を兼帯し、元和二年(一六一六)頃、播庭和尚の時に泉野に替地を拝領し堂宇を再興したと伝えられる。
 境内には、慶安三年(一六五〇)宗真が建立した松源庵があったが、今はない。
 加賀藩二代藩主・利長夫人である玉泉院の二十五回忌法要の折、小松から三代藩主・利常がはるばるお参りに訪れ、装束をここで改めたと言われている。
 境内にある秋葉大権現を祀る堂があるが、これは火ぶせの神として尊信されている。
 なお、当寺は夕力ジアスターゼの創製とアドレナリンの発見で有名な、高峰譲吉博士の菩提寺でもある。
■寺町寺院群(「静音の小径」掲載分)
 玉泉寺金沢市野町3-15-10 
 光顕山と号し、時宗に属する。
 当寺は、はじめ浄禅寺と称しており、開山は、恵季によって越中(富山県)新川郡新庄村に創建されたと伝えられる。恵季は、越中の守護職であった畠山尚慶の親族であり、後に富山の柳町(現・古寺町)に移るが、当寺は古くから管原道真を祀っていたので、後の加賀藩二代藩主・前田利長の崇敬が厚かった。慶長十九年(一六一四)、利長が死去すると、利長の夫人であり、織田信長の四女でもある玉泉院は、金沢城西の丸に移住し、元和三年(一六一七)、玉泉院は三代藩主・利常に請うて浄禅寺の十二代住職其阿南水を別当とし、金沢六斗林(現・野町)に勧請した。
 玉泉院は、享年五十歳で亡くなったが、寛永六年(一六二九)、寺号を玉泉寺と改め、玉泉院の位牌所とした。正保二年(一六四五)の玉泉院の二十三回忌が当寺で行われたが、寺が狭く、二十五回忌までに寺の造替を命じられ、規模を雄大に寺領三千歩(約一万平方メートル)が与えられた。
 明治四年(一八七一)、六斗林の出火により、堂宇はことごとく焼失し、小堂を建て、今日に至る。
■寺町寺院群(「静音の小径」掲載分)
 玉龍寺金沢市野町3-24-32 
 大亀山と号し、曹洞宗に属する。
 前田長種の父長定が尾張(愛知県)前田村において創建、桂厳慧芳長老を懇請して開山とした。長定の嫡男長種は、父が尾張蟹江の合戦に自害して後、加賀藩初代藩主・前田利家の家臣となった。その後、越中守山・富山・加賀小松と藩主と行を共にし、後に金沢の法船寺町に移って、慶安元年(一六四八)、現在地に寺地を受けた。長種は利家の長女・幸姫をめとり、慶長六年(一六〇一)には従五位下対馬守に任ぜられている。前田長種家の菩提寺である。寺号は長定の戒名玉龍寺殿から名付けられた。
 山門は薬医門、脇塀付桟瓦葺で、慶安年間に近いものと見られる。精巧かつ華麗な作で、朱塗厨子「厨子入舎利塔」がある。
 玉龍寺、天徳院の住職から永平寺の貫首、曹洞宗の管長となった名僧・森田悟由の墓がある。
 当寺に長種夫妻の宝篋印塔をはじめ、前田村から移された合同碑がある。
■寺町寺院群(「静音の小径」掲載分)
 興徳寺金沢市寺町5-12-16 
 金昌山と号し、日蓮宗に属する。
 由来書によれば、当寺は羽咋郡滝谷妙成寺の末寺で、正保元年(一六四四)、秀閑日受が宝達山に建てたものが起こりと伝えられる。
 その後、慶安四年(一六五一)、金沢に出て、三宝寺に借地して草庵を結び、次いで延宝二年(一六七四)、現在地に寺地を得て、再興したとある。
 寺蔵の鬼子母神は、前田家の家臣である陶芸家・諏訪蘇山の作で、子育ての神として深く信仰され、日夜参拝されている。
■寺町寺院群(「静音の小径」掲載分)
 月照寺金沢市野町3-20-34 
 東光山と号し、曹洞宗に属する。
 慶安五年(一六五二)、前田長種の正室であり、加賀藩初代藩主・前田利家の長女である春桂院(幸姫)の菩提寺として、次男・前田丹後長時によって建立された寺である。開山は、龍淵寺五世住職である恵学。
 寛文七年(一六六七)には、三代藩主・利常より寺地千坪(約三千三百平方メートル)を追加され、大伽藍を建立した。
 明治四年(一八七一)には六斗の大火で類焼したが、現在の建物は前田家の屋敷の一部を移転して再建したものである。延焼をまぬがれた山門は、江戸中期の建築様式を見ることができる。
 境内入口には、多くの石仏が建ち並んでいるが、これは卯辰山にあった三十三体と鶴来街道にあった三十三体の観音仏を集めて安置したもので、平和を祈願し、手を合わせる人が多い。
■寺町寺院群(「静音の小径」掲載分)
 希翁院金沢市野町3-19-66 
 亀福山と号し、曹洞宗に属する。
 開山は、慶長十年(一六〇五)、越中(富山県)今の石動永伝寺の三世住職・希翁周麟で、神戸清庵と神戸蔵人が檀家となり、加賀藩二代藩主・前田利長に願って寺地を拝領し創建した。神戸蔵人は、加賀初代藩主・前田利家の弟、前田秀継の夫人の甥で、秀継子息又次郎の家臣であった。清庵は、蔵人の弟である。又次郎は、永伝寺を建立している。
 境内には、竹田忠順や富永家などの墓がある。竹田忠順は、火消役で寺社奉行や公事場奉行などを務め、連歌を好んだという加賀藩家臣。富永助信、助盛らは代々藩に仕えた武士で、千石を領して香林坊のほとりに住み、「福は内、鬼も内」と言って豆まきをしたことで知られる。
■寺町寺院群(「静音の小径」掲載分)
 本覚寺金沢市野町3-18-4 
 本門山と号し、顕本法華宗に属する。
 慶長十九年(一六一四)、加賀藩重臣・三輪志摩守長好が加賀藩三代藩主・前田利常より、現在地の千百四十坪を拝領して当寺を建立、京都妙満寺貫首・日経を開山として本寺は創建された。
 三輸氏は、利常に願って寺内に豪華な御骨堂を建立し、二代藩主・利長の分骨と位牌を納めた。よって、利長夫人であり織田信長の四女である玉泉院は、しばしば当寺に参詣したという。
 当寺は、もと不受不施派の寺であった。はじめは本長寺と輪番で前田家領内同流派寺院の触頭を務めた。
 文政十年(一八二七)、自火により一宇残らず焼失し、その後再建されたが、明治四年(一八七一)三月に起きた六斗の大火で再び類焼した。
■寺町寺院群(「静音の小径」掲載分)
 開禅寺金沢市野町3-18-10 
 華嶽山と号し、曹洞宗に属する。
 はじめは、能登・田鶴浜で創建したと伝えられるが、慶長十七年(一六一二)、加賀藩三代藩主・前田利常の時に金沢の木ノ新保に、次いで三輪長好下屋敷裏、次いで長九郎左衛門下屋敷に本屋敷を受け、正保四年(一六四七)、玉泉寺並びの寺領を受けたが、寺を造営しなかったため、慶安四年(一六五1)、その地を宝勝寺の千岳(少林寺)に与えられた。
 長氏は、田鶴浜東嶺寺を菩提寺とするが、速隔地であるため、開禅寺を金沢の檀那寺としたいと藩に申し出、万治二年(一六五九)、今の寺地を受けた。
 長連龍の娘で二代藩主・利長の養女となり、前田美作守直知の継妻となった久香院(求光院)の墓がある。
 当寺の味のある流麗な筆線で描かれた「風景屏風」は、江戸中期の作品と考えられる。
■寺町寺院群(「静音の小径」掲載分)
 極楽寺金沢市寺町5-5-12 
 安養山と号し、浄土宗に属する。
 南北朝騒乱の時、後醒醐天皇の第八皇子宗良親王は越後、信濃に潜伏していたが、延元二年(一三三七)、越中国射水郡牧野村(富山県高岡市)に至り、仮の御所を造り居住していた。その後、落飾して牧野の地に草庵を結び、仏門に入り極楽寺と号したことに始まる。宗良親王は佛眼上人明心法親王と尊称された。
 寺院来歴記によれば、天正年間(一五七三~九二)、後の加賀藩三代藩主・前田利常が越中(富山県)守山に在城中、守山極楽寺の第一世・暫誉上人に深く帰依したと伝えられる。
 よって慶長四年(一五九九)、利常が金沢に入城した際、極楽寺の住職・暫誉上人を召寄せ、元和元年(一六一五)には現在地に寺地千五百坪を賜った。
 暫誉上人は文緑三年(一五九四)、上京参内して紫衣の勅許を蒙り、加賀一国中浄土宗寺院の触頭を勤めたとある。
 寺中に清覚院・不捨院があったが、宝暦九年(一七五九)の罹災の後は再建されていない。
 当時の開祖・明心仏眼法親王の木造が安置されている。
 本堂前に朱塗りの欄干が設けられているのも、皇子が創設された寺としての格式を表わしたものといわれている。
■寺町寺院群(「静音の小径」掲載分)
 松月寺金沢市寺町5-5-22 
 瑞亀山と号し、曹洞宗に属する。
 斉藤刑部宗忠が、白峰和尚のために越前(福井県)堀井庄において起こした寺であるが、加賀藩初代藩主・前田利家の入国後、金沢に移り、宗忠が願って小立野に造営し、元和二年(一六一六)には現在地に移った。
 当寺の境内には有名な老桜があり、「大桜」とも「御殿桜」とも言われる。これは、中興至岸和尚が三代藩主・前田利常から小松城内にあったものを拝領したと伝えられる桜である。樹種は山桜に近く、花茎五センチ内外、四月中句開花する。樹齢は定かではないが、周囲約六メートル、高さ十四メートルの大木である。昭和十八年八月、文部省から天然記念物に指定された。
 泉鏡花の作品「桜心中」では、「この桜は名木です」と記している。
■寺町寺院群(「静音の小径」掲載分)
 立像寺金沢市寺町4-1-2 
 妙布山と号し、日蓮宗に属する。
 永仁二年(一二九四)、日像上人が越前南条郡府中(福井県武生市)立像庵を建立。この庵を日治の代に妙布山立像寺と号した。
 天正十一年(一五八三)、後の加賀藩二代藩主・前田利長が松任入城の時、日治も従い小松に建立、続いて利長越中守山に移るときも、日治再び従い寺地を高岡に、さらに利長が富山に移るときも従い富山に寺地を与えられた。利長が金沢城主となり、初めは金沢の河原町(現・片町)に寺地拝領、その後、現在地に移った。
 三代藩主・利常の生母寿福院の母であり、利常の祖母寿命院の再婚先、小幡家が木材を寄進、小幡家の定紋松皮菱が欄間に彫られている。
 第二十二世日輝は、子弟訓育の充洽園を創設し、日蓮宗近世教学の発祥地とも言われた。本堂は、向拝柱の面が大きく桃山時代の様式を示している。境内には、キリシ夕ン灯籠や六代目横綱・阿武松緑之助の墓がある。
■寺町寺院群(「静音の小径」掲載分)
 実成寺金沢市寺町4-2-2 
 永正山と号し、法華宗に属する。
 貞享二年(一六八五)の由来書によれば、永正十四年(一五一七)、日授が石川郡野々市に創立したのが起こりと伝えられる。
 後に、金沢の小立野に転じ、加賀藩三代藩主・前田利常の時に河原町(現・片町)に移され、さらにその後、現在地に移った。
 また文化三年(一八〇六)の由来書によれば、十代藩主・前田重教の生母・実成院から国家安泰の祈祷を命ぜられ、宝暦十一年(一七六一)に実成院が没すると、当寺において葬礼が行われ、後に、霊屋を設けて霊供米十石が寄進されたとある。実成院の法号は、当寺号を採つたものと思われる。
■寺町寺院群(「静音の小径」掲載分)
 高岸寺金沢市寺町5-2-25 
 妙榮山と号し、日蓮宗に属する。
 当寺は、もと加賀国白山にあり白山城主で前田家家臣の高畠石見守の菩提寺として建立された。
 天正十五年(一五八七)の創建で、開山は石見守弟、和泉堺の成就寺十一世妙覚院日饒上人である。はじめは石見守下屋敷にあり、のち寛永十三年(一六三六)、現在地に移る。高畠家は、加賀藩初代藩主・前田利家の正室まつの方の実家であり、石見守の奥方は利家の妹、津世である。
 茶屋「犀枩軒」の額は、三代藩主・前田利常の命名で十三代斉泰の揮毫である。
 墓所には、真田氏、織田氏、前田家ゆかりの書道家二木氏、易学者鶴見氏、九谷焼絵付の祖である後藤才次郎、藤尾の局、内藤家の墓などがある。
■寺町寺院群(「静音の小径」掲載分)
 長久寺金沢市寺町5-2-20 
 鶴雲山と号し、曹洞宗に属する。
 『長記』によれば、慶長十三年(一六〇八)創建。高畠石見守定吉の後室・長久院(生前は長寿院)のために栖覚寺を郊外にある大豆田高畠氏の下邸に建てたが、その粧田三十石を寺領として寄進し、その十五年後、長久寺と改めたとある。
 寛永十二年(一六三五)には泉寺町(現・寺町)の玉泉寺前に転じ、明暦元年(一六五五)、寺封を増して五十石とし、延宝四年(一六七六)、野田寺町覚源寺の遺址である現在地に移って、長久寺を建立したとある。
 当寺は、前田利春の三女で加賀藩初代藩主・前田利家の妹・津世の菩提寺でもある。
 境内には芭蕉の碑があり、また樹齢四百年近くになる金沢市保存樹の銀木犀があり、九月に開花する。
■寺町寺院群(「静音の小径」掲載分)
 鶴雲山曹洞宗に属する
 本因寺金沢市寺町5-2-15 
 興冨山と号し、法華宗に属する。
 元和元年(一六一五)、京都本能寺第十二世伏見宮日承の弟子・真浄院日得を開山に迎え創立、横山康玄乳母の菩提所となる。その後、横山家の懇願により今の寺地を拝領した。
 北条氏直の重臣であった松田家や関家(関流剣術・関重秀)等の菩提所でもある。
 現在の建物は、延享元年(江戸中期)に再建されたものである。
■寺町寺院群(「静音の小径」掲載分)
 宝集寺金沢市寺町1-6-39 
 倶利伽羅山と号し、真言宗に属する。
 河北郡倶利伽羅山の長楽寺の僧弘誉を開山とした。
 僧憚獄の時、承応元年(一六五二)、加賀藩士・津田伊織盛尚が堀川讃岐町(現・堀川町)に創立して、その母の位牌所としたが、正徳四年(一七一四)、今の地に移った。不動明王、歓喜天、毘沙門天、千手観音を祀る。
 加賀藩十代藩主・前田重教の頃より、前田家の祈願寺となる。本尊は不動明王。大仏さまの六角堂として有名である。
 加賀藩十二代藩主・前田斉広の産母貞淋院の発願により建立した。
■寺町寺院群(「静音の小径」掲載分)
 神明宮金沢市野町2-1-8 
 「お神明(しんめい)さん」の愛称で親しまれ、境内には樹齢千年を越える大けやきがある。
 金沢旧五社の一社で、全国七神明、または三神明の一社と云われる。古来より祓宮として知られ、特に春秋のあぶりもち神事は三〇〇年以上続く全国唯一の悪事災難厄除伝統特殊神事として有名。加賀藩二代藩主・前田利長が春秋両度の祭礼を厄除け神事とし、祭りごとに供える餅を御幣(お祓いの用具)形に串刺しにしたものを飾って家の守とする一方で、聖火にあぶったものを食して身体の災厄を免れる信仰として自ら範を示した事が起源とされる。
 金沢の左義長の元祖としても知られ、藩政時、毎年正月の城内の諸門・藩主の居間等に掛けられた注連縄は神明宮に持参し、寺社奉行立会いの下に焼かれるのが慣例であった。
 元和七年(一六二一)頃には伊勢踊りが大流行し、人々は神明宮と金沢城の間を練り、その賑わいは江戸の神田祭・浅草の三社祭に匹敵するほど盛大であったと伝えられる。
 昭和初期の詩人・中原中也は幼年期を金沢で過ごした際、父に連れられて神明宮で軽業を見た自らの思い出を題材にして詩『サーカス』を作ったと云われている。また金沢の文豪室生犀星も幼年期、境内を遊び場にしていたと云われる。
■寺町寺院群(「静音の小径」掲載分)
 泉野菅原神社金沢市野町3-15-7付近 
 通称、玉泉寺の天満宮と称されていた。昔は玉泉寺の場所にあり、玉泉寺は社の裏にあった。
 加賀藩二代藩主・前田利長の夫人・玉泉院が前田家長久のため、元和三年(一六一七)の秋、金沢に天満天神堂を建立し、越中新川郡の浄禅寺十二代住職・其阿南水を招き別当とした。
 藩政時代は、月次(つきなみ)の会として連歌を祈祷のために行つていた。
 廃藩後一時、神像を卯辰神社に合祀し、社殿は玉泉寺に与えられたが、明治四年(一八七一)六斗林の大火に寺社ともに焼失した。ところが翌年、氏子は再び玉泉寺の境内の西側に社殿を建て、神像を帰座し、泉野菅原神社と称した。
■寺町寺院群(「静音の小径」掲載分)
 八阪神社金沢市寺町5-1-26 
 素戔鳴尊弥栄(すさのおのみことやさか)八神を祀り、祇園社と称した。
 貞観十一年(八六九)、京の都に疫病が流行した時、祇園の神を迎えて祀り、祈ったことに由来している。
 加賀藩初代藩主・前田利家が本山派の山伏願行寺(規行院)を伴い、各地を歴赴し金沢に入城した。その後、堂宇を建立し、城下の鎮護厄除疫病の祈願を命じられた。
 藩政時代は毎年六月、京都の祇園祭りと同じく、祇園会と称して祭祀を行い、夏の厄病よけのご利益があるとして、祭日には群集が集まり社内が賑わっていた。
 明治二年(一八六九)、神仏混淆廃止となり、八阪神社と改称した。
 また当社には、藩祖入城の際に使用した陣太鼓・賎ヶ岳合戦図大額が保存され、社頭の鳥居小橋は往時としては貴重な赤戸室石製である。
■寺町寺院群(「静音の小径」掲載分)
 諏訪神社金沢市寺町5-2-41 
 御祭神
  建御名方神「おすわさま」出雲の神・大国主神の御子
  譽田別名「はちまんさま」皇位第十五代・應神天皇の亦の御名
 当神社の発祥は、室町時代の初期、正長二年(一四二九)当時の豪族、富樫氏の周遊の地、泉野領桜畠に同氏の起請によって創建された「八幡宮」に起源する。
 その後、高岸寺の地に在ったが、寛永十三年(一六三六)同地と替地し現在に至った。
 貞享二年(一六八五)の由来書によれば、加賀藩三代藩主・前田利常の時に、野村宗順(重猶)・大平右京が上申し、御鷹の祈祷のために信州、諏訪神社を勧請、合祀したとあり、「諏訪八幡」と呼称されていた。
 真言宗長蔵院、後に理証院が別当として奉祀していたが、明治元年(一八六八)に神仏混淆が禁止せられた後、復職し名を武田監物と改めて神職となり、御社号を諏訪神社と改称した。
 当社には、明和七年(一七六九)の縁起がある。
 毎年旧暦の七月二十六日の夜には、月の出の時刻に併せて、月拝祭が執り行われる。
 この特殊神事は、卯辰山の稜線に三度にわたり立つ光芒が合体して下弦の月が顕れることから、「三光さん」と呼ばれている。
■寺町寺院群(「静音の小径」掲載分)
 桂岩寺金沢市寺町1-6-46 
 天祥山と号し、曹洞宗に属する。
 寛永十九年(一六四二)、伝馬町(現・片町、中央通、長町)に創建。享保十四年(一七二九)大火のため焼失、翌年、現在地に再建された。
 文化六年(一八〇九)、海運天麟和尚が五百体羅漢安置を発願し、二百余体を勧進したが、志し半ばにして文化十一年(一八一四)、示寂した。後師兄二十世・円戒和尚が志しを嗣ぎ百六〇体を勧進し、文政六年(一八二三)示寂。二十一世・欄牛和尚が文政八年(一八二五)に残りの尊像を勧進教化、三月十八日に完成し法要を営んだ。後の昭和三十七年四月二十九日、小学生の火遊びから本堂と五百羅漢等を焼失したが、それより復興を発願し、昭和六十二年十一月一日、完成奉賛法要を営んだ。
 正面に安置の御本尊は、華厳の釈迦といい、華厳経を説いている姿と言われている。頭には宝冠を頂き、頸には衆の宝珠や瓔珞を付け荘厳されているので、観音様と間違えられることも多い。
■寺町寺院群(「静音の小径」掲載分)
 昌柳寺金沢市寺町3-6-22 
 徳本山と号し、本門佛立宗に属する。
 文禄四年(一五九五)、七尾城守であり「冨田流剣法」中興の祖である富田治部左衛門與六郎景政の兄、冨田治部左衛門興五郎景家が桜畠に母の菩提寺として創建したのが当山のはじめである。その当初は本門八品門流京都妙蓮寺の末、七尾法華谷本行寺の末寺として、妙惣院日俊が初住、開基をつとめた。
 その後、明治三十三年(一九〇〇)、八品門流本門佛立講の小野山日風が京都から、当時の総代であった中山平太郎の家を訪れ、病気に苦しむ老母を救つたのをきっかけに、当時衰微していた当山を中興した。昭和二十二年には、『本門佛立宗』の一宗独立に伴い、今日に至っている。
 所在地は寺町五丁日三―三番地(現在の鐘声園)から、昭和六年十二月に当地に移り、現本堂は昭和六十三年に新たに建立されたものである。
■寺町寺院群(「静音の小径」掲載分)
 融山院金沢市寺町2-1-4 
 円通山と号し、曹洞宗に属する。
 元和九年(一六二三)、開山融山泉祝和尚は当時、丹波国円通寺住持であったが、加賀藩家老・横山長知の請を受け、市内八坂町(現・東兼六町)に松山寺を建立し開山となる。
 後、隠棲して横山家邸内に庵を結んだ。これが融山院の始まりである。
 寛文七年(一六六七)、四世州屋和尚に至り、野田寺町(現在地)横山家下屋敷拝領(金沢古蹟志巻二十)三千坪の境内地を有する大刹となったが、幕末の排佛毀釈の災に遭い堂宇は消滅した。明治末、二十七世円智和尚により現在地に再建したが、昭和の大戦後破損甚大となり、現仮本堂となっている。
 昭和五年、金沢学園を併設した。
■寺町寺院群(「静音の小径」掲載分)
 玄光院金沢市寺町2-13-25 
 護念山と号し、浄土宗に属する。
 承応元年(一六五二)、根誉源政の創立になる。大正二年(一九一三)、永福寺を合併した。現在の建物は、江戸後期のものである。この寺の本尊は、善光寺式の阿弥陀如来立像で、やさしく温顔をたたえ黄金色の立派な仏像である。また、両脇には観音、勢至の両金銅製の菩薩像が侍立している。
 本寺は、春の法然上人御忌会、秋の十日十夜法会等の法要を行っている。
■寺町寺院群(「静音の小径」掲載分)
 妙法寺金沢市寺町4-2-6 
 大蓮山と号し、日蓮宗に属する。
 開基、円智院妙浄法尼は前田利家の弟、佐脇籐八郎良之の息女で、生母は太閤秀吉の愛妾淀君の乳母である。父亡き後、利家とまつに養女として愛育される。長じて、まつ縁戚の篠原一孝の室となる。亡父菩提供養等の為に顕性院日栄上人を開山として当寺を建立、時に天正元年(一五七三)十月の事といわれている。
 円智院の肖像画、所載の平安期の紺紙金泥法華経八巻、利家より拝領の陣羽織を法服とした七条袈裟、開基持仏の鬼子母神木像が現存する。当寺には、算学者の宮井南畝、蘭医の内藤蘭州、柔術家の大田清蔵、金沢歌舞伎の嵐冠者、戌辰北越の役の小川清太翁、俳人杉原竹女等が墓所を営んでいる。
 世人は、タイコー妙法寺と呼称している。
■寺町寺院群(「静音の小径」掲載分)
 妙福寺金沢市寺町3-2-33 
 永隆山と号し、法華宗に属する。
 慶安二年(一六四九)、実成寺八世・本覚院日誉の創建。
 本堂は、宝暦九年(一七五九)の大火で焼失したが、本堂の向拝の繰形には創建当時のものが見られる。
 また、当寺は加賀藩士・岡本右太夫ゆかりの寺でもある。岡本右太夫は明和年間(一七六四~七二)に初めて江戸より金沢へ孟宗竹を移植した人物で、石川県におけるタケノコ生産の元祖といわれている。
■寺町寺院群(「静音の小径」掲載分)
 本性寺金沢市寺町4-1-6 
 長久山と号し、法華宗に属する。
 天正十四年(一五八六)、三田村作内と橋本総右衛門の二人が、加賀藩初代藩主・前田利家に請うて、本性寺を枯木町に建立。越前府中本興寺の子院・教行院の僧を招いて寺主とした。
 後に小立野に移り、次いで河原町、そして元和二年(一六一六)現在地に移った。
 境内には、建仁寺流の宮大工・山上善右衛門の墓がある。山上善右衛門は加賀藩三代藩主・前田利常の招きで加賀藩に仕え、富山県の国宝・瑞龍寺、羽咋市の妙成寺、気多大社、小松市の梯天満宮、那谷寺などを建立した名棟梁である。
 また、平家関氏の墓も境内にある。関氏は、平重盛の次男・資盛が伊勢国鈴鹿郡関の谷に隠れて関と姓し、源氏の討伐から逃れた。子孫は能登の長氏に仕え、現在に及ぶ。
■寺町寺院群(「静音の小径」掲載分)
 大円寺金沢市寺町5-3-3 
 五智山大圓教寺、浄士宗に属する。
 寛永元年(一六二四)、開山は仰誉是伯上人で、大坂夏の陣で戦死した父、大円宗吟大居士の供養のため、草庵を建立した。
 元禄十三年(一七〇〇)三代・心岩上人の時、現在地に再建されたが、宝暦の大火に遭い焼失。地蔵堂、庭園が当時を伝えている。
 当寺に祀られている「人骨地蔵尊」は、心岩上人の作で、誰にも拝まれることのない人骨を哀れみ、顔・首・胸・両手足に人骨を塗り込めた、高さ四メートル三三センチ、極彩色の衣をまとった延命地蔵尊である。
 また、什物堂には心岩上人の書画工芸品、自画像図(市文化財指定)、血判浄土三部経、念仏書、来迎図、当山歴代の什物等が陳列されている。
■寺町寺院群(「静音の小径」掲載分)
 妙典寺金沢市寺町5-2-33 
 正栄山と号し、日蓮宗に属する。
 天正十三年(一五八五)、仏蔵院日敬が越中高岡で創建。神保氏張の室が開基となった。
 慶長十四年(一六〇九)、三輪長好が加賀藩三代藩主・前田利常に請うて、金沢河原町に移り、元和二年(一六一六)、現在地に転じた。
 宝暦九年(一七五九)に焼失したが、後に再建された。
 当寺にある釜師宮崎彦九郎義一の「鋳造三具足」は、金沢市の指定文化財である。
■寺町寺院群(「静音の小径」掲載分)
 本妙寺金沢市寺町5-2-37 
 玄秘山と号し、法華宗に属する。
 元和九年(一六二三)、越中高岡本陽寺の弟子・円重院日覚が創建した。開基旦那は、加賀藩二代藩主・前田利長に仕えた中将という女中で、中将は日覚の姉に当たる。
 本堂は、文化九年(一八一二)建立の建物であり、当山第九世宣妙院日慈建立当山中興也と記録されている。
 加賀騒動の際、お貞(真如院)とかかわりのあった半田家の墓もある。
■寺町寺院群(「静音の小径」掲載分)
 伏見寺金沢市寺町5-5-28 
 行基山と号し、髙野山真言宗に属する。
 もとは、石川郡山科村にあったが、元和元年(一六一五)、同寺中興、快存和尚が現在地に寺地を賜り移転した。
 本尊の阿弥陀如来像は、平安初期の金銅仏の力作とされ、国の重要文化財に指定されている。行基菩薩を開眼供養の導師とする。
 また、護摩堂には木像の不動明王坐像(金沢市指定文化財)があり、弘仁期(八一〇~二四)の作かと言われている。
 金沢の地名発祥のもとになった「芋掘藤五郎の伝承」が残る寺としても知られ、藤五郎夫妻の像や墓もある。
 その他、観世音菩薩像(金沢観音霊場第十四札所)など古仏も多い。
■寺町寺院群(「静音の小径」掲載分)
 浄安寺金沢市寺町5-5-18 
 笈松山と号し、浄土宗に属する。
 加賀藩初代藩主・前田利家と同じ尾張荒子の出である貞蓮社白誉笈松上人が、天正三年(一五七五)に利家の命を受け、金沢に入部し古寺町(現・片町)に建立した。
 元和二年(一六一六)、三代藩主・前田利常に請うて、寺地を得て現在地に移った。
 当寺の「寄木造り阿弥陀如来坐像」は、延宝元年(一六七三)に建立され、金沢四大仏の一つに数えられる。
 宝暦九年(一七五九)の大火で建物は全焼したが、壇信徒によって大仏や御像などは無事に運び出され、その後寺も再建された。
 この他、八臂弁財天、大黒天、毘沙門天の三体を奉る寺である。
■寺町寺院群(「静音の小径」掲載分)
 常徳寺金沢市寺町5-1-29 
 鵜川山と号し、真宗大谷派に属する。
 文安元年(一四四四)、本願寺第五世・綽如上人の実子・鸞芸法師が、能美郡西山に一宇を創建し、浄徳寺と号する。やがて、聖徳太子の夢告によって同郡鵜川に移転。本願寺第十五世・常如上人の時一字を賜り、常徳寺と改称する。万治三年(一六六〇)現在地に移る。
 :梵鐘は初代・寒雉の作で、金沢市の指定文化財となっている。
■寺町寺院群(「静音の小径」掲載分)
 雨宝院金沢市千日町1-3 
 千日山と号し、高野山真言宗に属する。
 本尊は、金毘羅大権現。
 開祖は、聖武天皇の時、天平八年(七三六)、越智の泰澄大師が白山の妙理大菩薩に霊告と六句の秘文を受け、大日如来を本尊とし、当地において秘法密場として創建したことが起こり。
 八百五十年余を経て、文禄四年(一五九五)、大和の国の大徳・雄勢が伊勢神宮一千日参詣し、満願の暁に霊告を受け、来錫。堂宇を再興して今日に至る。更に、雄勢は泉野原で伊勢神宮に向かって五千日の修行を行い、慶安二年(一六四九)、九十六才で入定した。その地を「千日塚」と言ったが、今は不明で石碑文が境内にある。
 金沢の文豪・室生犀星は、当院二十二世眞乗法印の養嗣子となり、幼少から青年期にかけて当院で過ごした。「愛の詩集」「性に目覚める頃」「杏っ子」をはじめ数々の名作を残している。
■寺町寺院群(「静音の小径」掲載分)
 瑞泉寺金沢市白菊町9-5 
 杉谷山と号し、真宗大谷派に属する。
 江戸時代の寛永年間(一六二四~四四)に創建された。
 石川郡押野の上宮寺に、越中国井波の瑞泉寺第八世・准秀の次男・宣心が入寺。名を改めて瑞泉寺とし、現在に至る。当時石坂五十人町と呼ばれた現在の地には、享保十七年(一七三二)に移った。大正十一年(一九二二)に火災に遭い、現在の本堂はそれ以降のもの。
 江戸期において、第三世・常栄より金沢御坊の役人に、加えて第四世・真栄の頃、享保十四年(一七二九)より東方触頭役を担ってきた。
 当寺には、親鸞聖人御真影、蓮如上人御真筆名号及び、触頭文書を含む一万七千八百三十八点の古文書が市指定文化財になっている。
■寺町寺院群(「静音の小径」掲載分)
 妙立寺金沢市野町1-2-12 
 正久山と号し、日蓮宗に属する。
 寛永二十年(一六四三)、日通上人が運上町に創建。後に、藩命により能登の石動山、新堅町へと移築され、万治二年(一六五九)現在地に転じた。
 文久二年(一八六二)、祖師堂の一部を焼失。それ以前は、願念寺の前の通りを正面としていたが、多数の参詣者による混雑のため、十三代藩主・前田齊泰の命により兼六園内にあった竹澤御殿の正門を移築、鶴来街道側を正面とした。堂内には、落とし穴、隠し階段等種々の仕掛けが施され、その複雑な構造から「忍者寺」と呼ばれている。
 日蓮聖人の法孫日像上人作の祖師像を安置し、古来より常題目の寺として多くの参詣者を集める。
■寺町寺院群(「静音の小径」掲載分)
 願念寺金沢市野町1-3-82 
 木一山と号し、真宗大谷派に属する。
 慶長年間(一五九六~一六一五)の創建。万治二年(一六五九)、河原町(現・片町)から現在地に移転した。
 本堂は文化五年(一八〇八)に再建されたもので、いわゆる現代の真宗の本堂形式の典型的な建物である。
 境内に松尾芭蕉の「塚も動け我が泣く声は秋の風」の句碑があるが、この句は弟子である小杉一笑の死を知って詠んだ句。当寺は小杉家の菩提寺である。一笑の辞世の句「心から雪うつくしや西の雲」という金石の俳人・蔵月明の名筆による句碑も建つている。
 また当寺には、金沢に三個存在するうちの一つである明治期の朝鮮鐘がある。この鐘には、有栖川宮熾仁親王の銘が入つている。
■寺町寺院群(「静音の小径」掲載分)
 弘願院金沢市野町1-3-87 
 安養山と号し、浄土宗に属する。
 正保二年(一六四五)創建。
 延宝二年(一六七四)に再建した本堂は、江戸中期の建物として貴重なものである。
 当寺には、金沢市文化財指定の絹本刺繍の仏涅槃図がある。
 また、画僧・心岩筆の寒山拾得図や加賀藩御典医・池田玄真の墓がある。
■寺町寺院群(「静音の小径」掲載分)
 龍雲寺金沢市寺町5-12-40 
 本源山と号し、曹洞宗に属する。
 門前町にある大本山総持寺祖院内、芳春院の大昌文意和尚を開山とし、寛文元年(一六六一)、御供田村(現・神田町)の土屋勘四郎が創建した。
 土屋家先祖の土屋大学、同隼人は文明八年(一四七六)より当地に住んだが、天正八年(一五八〇)、柴田勝家に減せられる。その後、隼人の子が一向宗の教栄寺、慶覚寺を継いだが、勘四郎は武家寺ではなく(百姓ノ持チ夕ル国)に徹し、藩主に忠誠を誓う証しとして禅宗に転宗した。
 十村役を筆頭に村肝煎、百姓の寺として、無住時代もあったが、明治四十四年(一九一一)二十六世・順全和尚の代、弘前市に移転の宗徳寺建物を移築再建。二十七世禅明和尚在住の戦中戦後四十五年に於て、書院、社会福祉法人龍雲寺保育園を創建する。檀家・土屋又三郎(義休)は近世農政において、日本の三傑と云われる人物で、耕稼春秋、加越能大路水経等を著す。
■寺町寺院群(「静音の小径」掲載分)
 常松寺金沢市野町1-3-8 
 延寿山と号し、曹洞宗に属する。
 慶長十六年(一六一一)、長門町(現・片町)にあった山崎長徳の下邸内に創建。越前南条郡高瀬の宝円寺住職・廣山を請うて開山とした。
 寛永十二年(一六三五)、現在地に移っている。
 当寺は、長徳の子・長郷の逝去を悼んで建てたものであるが、後に寺号をもって長徳の戒名とした。
 明治に入つて、伽藍を焼失した為、江戸後期の建物である座禅堂を本堂としている。
■寺町寺院群(「静音の小径」掲載分)
 光専寺金沢市野町3-2-37 
 普潤山と号し、真宗大谷派に属する。
 文明年間(一四六九~八七)、僧・慶緑が蓮如上人に従って加賀を布教していた折、石川郡に創建した。三世・慶俊の時、佐々成政の重臣・黒川又右衛門が当寺に入つて僧となり、慶珍と称して四世となった。
 慶珍は、本願寺と誓願寺の紛争が起こった際、一隊の将となり、本願寺のために戦い功を奏した。この際、本願寺より梵鐘が与えられた。天正年間(一五七三~九二)、加賀の一向一揆が本山に対抗したので、慶珍が鎮定した。
 天正十八年(一五九〇)、下近江町に移転し、元和年間(一六一五~二四)泉野に移り、万治四年(一六六一)、現在地に転じた。
 当寺の鐘は、元禄五年(一六九二)、住持である寂道誓のために金沢尾張町に住んでいた森下屋八左衛門正勝が寄進したものである。
■寺町寺院群(「静音の小径」掲載分)
 立正寺金沢市野町3-2-15 
 源入山と号し、日蓮宗に属する。
 承応二年(一六五三)小幡宮内の与力、馬杉九郎兵衛の発起により光要院・日達上人を開山として創建された。はじめは六斗林にあり、本光寺と称していた。
 延宝八年(一六八〇)、泉野新村(現・泉が丘)を請地として移った。当時は、田んぼの中に一ヶ寺だけ建つていたので「田んぼ本光寺」と呼ばれていた。
 昭和のはじめに妙安寺を合併して、統一山・立正寺と改めた。平成七年、法華宗(真門流)に属する。
 当寺の境内には、幕末の志士として活躍した不破富太郎や明治期に貿易商として名を馳せた圓中孫平の墓がある。また、顕本法華宗の開祖・日什上人の手になる鬼子母尊神像が安置されている。
■寺町寺院群(「静音の小径」掲載分)
 龍渕寺金沢市野町3-19-60 
 霊松山と号し、曹洞宗に属する。
 天正十年(一五八二)、尾張の国にて、小松玉龍寺三世・大圓慧展により創建された。慶長年間に摂津国難波岡(現・大阪)に転じ、金龍寺と称した。
 寛永二年(一六二五)、加賀藩家臣・前田長種を介して、犀川川原に寺地千八百坪を得、中興四世徳厳文尭により再建。正保二年(一六四五)に、寺地三千坪を拝領して現在地に移転した。
 境内には藩主公用の竹林があるが、これは加賀藩三代藩主・前田利常の命により指定されたものである。
 また、書家・独角宗麟や、加賀古流生花の始祖・近藤理清などの墓がある。
 寺地全域が、金沢市の保存樹林に指定されている。
■寺町寺院群(「静音の小径」掲載分)
 本是寺金沢市弥生1-14-6 
 済生山と号し、日蓮宗に属する。
 慶安二年(一六四九)、開山本是院日理上人が犀川河畔河原町のあたりに済生庵という草一庵を創建したことに始まる。
 明暦三年(一六五七)、弟子の日寛上人が一宇建立を決意し、京都本山立本寺末寺として本是寺の寺号を賜り野田寺町に寺を建立する。
 寛文十三年(一六七三)、藩より現在地に寺地を拝領し移転する。当初、本堂、山門、鐘楼、客殿、庫裏等を建立し寺観を整えたが、現在は本堂、山門、庫裏のみで他の建物は現存しない。
 当山の守護神たる「七面大天女」像は、日蓮宗総本山身延山久遠寺第三十一世・一円院日脱上人より身延七面山の尊像と同体のものを遣わされ勧請されたものである。
 また、明和三年(一七六六)、日蓮聖人五百遠忌報恩のため、当山において初めて法華懺法会を厳修した。以後恒例となり、金沢の日蓮宗寺院において今日まで受け継がれている。その懺法本の版木は当山に保存されており、必要に応じて再版刊行している。
 その他当山には、釈尊涅槃図、鬼子母神十羅刹女像、大黒天尊像、元禄年間(一六八八~一七〇四)の身延山全景図扁額等がある。
 加賀藩士・佐々主殿の菩提所でもある。
■寺町寺院群(「静音の小径」掲載分)
 闕野神社金沢市寺町1-6-50 
 祭神天照皇大神
   菅原大神
 祭神天照皇大神は、延徳年間(一四八九~九二)に闕野伊右衛門が、石川郡富樫郷泉野の新村領地を開墾した際、土中より出現したもので、これを祭神として祀り神明宮と称した。後に当地に鎮座し、明治元年(一八六八)、発掘者・闕野伊右衛門の姓をもらい、闕野神社と改称される。
 菅原大神(天神様)は、前田家の家臣より明治維新の際、当神社へ寄贈勧遷されたものと伝えられている。大正五年(一九一六)、社殿等建造物を改築し、指定神社となっている。
 昔、当神社の境内で「宵詣り」という人に呪いをかけるものが流行し、本殿裏の欅の木には無数の藁人形が五寸釘で打ち込まれた。この出来事を残念に思った参拝者の一人が、天狗の面を樹の幹と枝の間にかけ、悪魔払いをした。現在も一本の欅に残っている。また、昭和五十六年の豪雪で落下した面が本殿に安置され、厄除の面、災難除の面として信仰されている。
■寺町寺院群(「静音の小径」掲載分)
 西方寺金沢市寺町5-6-48 
 天台眞盛宗寺院。当初は福井県にあり天正一二年(一五八四)前田利家の六女・菊姫が没した時、位牌を安置するため翌年に金沢に移り、七十俵の日牌料を受けた。江戸時代は天台宗の触頭をしていた。
 当寺には、母親と共に葬られた赤子を地蔵が憐れみ、飴を買い育てたという「飴買い地蔵」の伝承がある。地蔵を削り煎じて飲ますと子供の病気が治るという話が広まって皆が削るので地蔵堂を建ててお祭りをしたという。
■寺町寺院群(「静音の小径」掲載分)
 専修寺金沢市石引1-16-34 
 金城東山と号し、真宗大谷派に属する。
 正徳五年(一七一五)、開基慶円が能登羽昨部米出村に専修坊と号し、一寺を建立したことが起こりである。
 明治十二年(一八七九)、当地に移転した時に専修寺と名付けられた。
■小立野寺院群(「いし曳の道」掲載分)
 聞敬寺金沢市小立野3-23-3 
 真宗大谷派に属する。
 延宝五年(一六七七)、現在の小立野一丁目附近に、聞敬坊として創建。文政四年(一八二一)、本願寺の指令で七ヵ町村(湯涌新村、三口新村、上野新村、小立野新村、松下町、上田上村)の惣道場として現在地に建てられ、明治十三年(一八八〇)聞敬寺となった。
 当寺の内陣の欄間は、宝相華花草文様の金塗り一色であり、二百年以前の寺院欄間様式になっている。
 また、年に六回開かれている聞敬寺二十日講は、明治の直前に東本願寺が類焼した際、再建のため全国に「相続講」を開設した時に、門主・厳如上人に願い出て戴いた御消息を中心にしてできたものといわれている。
■小立野寺院群(「いし曳の道」掲載分)
 慶恩寺金沢市石引2-5-30 
 加須良山と号し、真宗大谷派に属する。
 延徳三年(一四九一)の創建と伝えられる。
 僧・慶心は、天文十五年(一五四六)金沢御堂建立にともない、本願寺の命を受けて御堂衆をつとめた。その後、越中から飛騨にかけて布教にあたり、九十才で飛騨・白川村加須良に示寂した。
 当寺は、木ノ新保から犀川河原町(現・片町)を経て、万治元年(一六五八)当地に移っている。
 所蔵品には、絹本着色教如上人寿像がある。
■小立野寺院群(「いし曳の道」掲載分)
 圓證寺金沢市石引2-3-18 
 戸室山と号し、真宗大谷派に属する。
 永正元年(一五〇四)、藤原重之が出家し、貞珊と名乗って一宇を建立し、圓證寺と称した。
 藤原重之は戦いに負け、河北郡戸室新保村に隠れ住んでいたが、山号はその地名に由来するものである。
 慶安三年(一六五〇)九月、火災により、現在地に移転する。
 貞享四年(一六八七)二月、木仏(阿弥陀如来) の許状が本山からおり、寺の創建となった。
■小立野寺院群(「いし曳の道」掲載分)
 願成寺金沢市石引2-3-11 
 桂山と号し、真宗大谷派に属する。
 開基である教導(大和国の生まれ)が、北国巡回中の明応六年(一四九七)九月、越中砺波郡刀利村(現・南砺市)において創建し、はじめは願成坊と称した。
 天明七年(一七八七)、金沢に移転。
 明治九年(一八七六)、寺号の公称が許され、願成寺となった。
■小立野寺院群(「いし曳の道」掲載分)
 唯念寺金沢市本多町1-12-22 
 松岡山と号し、真宗大谷派に属する。
 慶長二年(一五九七)、寂善法師によって創建される。
 はじめは小立野にあったが、寛文元年(一六六一)、現在地に移転した。
 「嫁坂・唯念寺」と呼ばれ、本堂には創建当初からの聖徳太子の木像が安置されている。
 本堂および内陣は他宗派の建て方になっており、途中で転派したものと考えられる。現在の本堂は、細部の様式から享保年間(一七一六~三六) のものと推定される。
■小立野寺院群(「いし曳の道」掲載分)
 鶴林寺金沢市東兼六町5-18 
 雲松山と号し、曹洞宗に属する。
 開山は、延元年間(一三三六~四〇)、大乗寺三代明峰和尚の弟子大智が唐より帰朝して、石川郡吉野谷村に建立した祇陀寺と伝えられる。
 後年、、祇陀寺が荒廃したので、越中(富山県)守山に再興したが、慶長年間(一五九六~一六一五)、守悦長老の時に金沢八坂に移し、明峰派を天真派に改めて大安寺と号した。
 その後、二代・融室の遷化の際、寺号を祇陀寺に復すべきことを遺言したので、後の住職がその仔細を僧録に披露したが、天真派からの抗議があったため、加賀藩三代藩主・前田利常の裁断によって、両派両寺号を廃し、鶴林寺と称して太源派の玉龍寺に属するようになった。
 当寺は文政年間(一八一八~三〇)中、十四代・暖源の時、前田家の祈願寺となり、毎年米百石金三十両を寄進された。
 寺宝には、板絵彩色鷹図、絹本大智禅師自画像軸(県指定)などがある。
 当寺には、利常寄贈の釈迦尊像と、城内女性達から贈られたニメートル近い子安地蔵尊座像がある。安産祈願者がよく訪れる。
■小立野寺院群(「いし曳の道」掲載分)
 高源院金沢市宝町7-16 
 福母山と号し、曹洞宗に属する。
 開山の春尭和尚は、加賀藩初代藩主・前田利家の息女・ 福姫の縁類として取り立てられたことから、その恩に謝するため、寛永十八年(一六四一)、大豆田に当寺を建立し、福姫の戒名より高源院と称した。
 しかし、万治二年(一六五九)、寺地を召し上げられ、替地を与えられなかったので、現在地を請地して寺を建立した。
 また、金沢西国二十九番の霊所でもあり、毎年七月一日には早朝より「一ツ灸」が執行される寺としても知られる。この一ツ灸は氷見市鞍川の東泉寺の開山一如禅師が宝永元年(一七〇四)、灸点を施すようになったことをきっかけとし、東泉寺十七世・菊地徹参和尚がその秘伝の術をこの地に伝えた。
■小立野寺院群(「いし曳の道」掲載分)
 献珠寺金沢市宝町7-14 
 金竜山、後に黄竜山と号し、臨済宗に属する。
 開基は、慶安四年(一六五一)、加賀藩士・横山式部長治の妻である海元院が、その母・献珠院のために、母の帰依僧・遠山を開山に招いて建立した。献珠院は加賀藩初代藩主・前田利家の孫娘・蕭姫である。
 寛文七年(一六六七)、遠山の死後、無住となったが、その間三年間にわたって曹洞宗の月坡が寺を守った。しかし、月坡が天徳院に移住したため再び無住となり、次いで檀那・横山氏従は寛文十二年(一六七二)、明僧・高泉を招いて、明法山と称した。
 高泉が退院した後、元禄(一六八八~一七〇四)末年、妙心寺の嵩山を招いて再興し、再び臨済宗に復した。
 京都市花園の臨済宗妙心寺が本山である。
■小立野寺院群(「いし曳の道」掲載分)
 棟岳寺金沢市石引2-4-6 
 宝林山と号し、曹洞宗(禅宗)に属する。
 開山は活通佛性禅師大空玄虎大和尚である。
 明応元年(一四九二)、越前南条郡領主・赤座長秋が父・赤座但馬守景秋と母の供養のため菩提寺として建立する。
 両親の戒名二字をいただき棟岳寺と名付け「孝養の寺」とし、慈父母観世音を祀る。後に赤座備後守吉家が加賀藩二代藩主・前田利長の招きにより加賀藩に移り、慶安二年(一六四九)、三代藩主・前田利常より寺領を拝領し、現在にいたる。
 当寺には日本最初の蘭方医学(オランダ医学)の先駆者・吉田長淑の墓所があり、前田家の御典医・江間家の菩提寺でもある。
 水戸天狗党(武田耕雲斎の率いる約一〇〇〇名)を弔う水府義勇塚と赤座(永原)甚七郎の墓所は幕末の物語を秘める。
 金沢三十三ヶ所第四番霊場であり、慈父母観音、子安地蔵尊、延命六地蔵尊を祀る。
■小立野寺院群(「いし曳の道」掲載分)
 如来寺金沢市小立野5-1 
 竜宝山と号し、浄士宗に属する。
 開山は、覚蓮社満誉上人岌台文公和尚で、天正年間(一五七三~九二)、越中国(富山県)増山に一寺を建立し如来寺と号したことが起こり。後に、高岡二上山麓に移転し、その後、金沢卯辰(現在、蓮昌寺のある地)に移った。
 元和二年(一六一六)、第五世超誉呑継の時、加賀藩三代藩主・ 前田利常の正室である天徳院夫人の命に従い、徳川家康の位牌所となった。明暦二年(一六五六)、五代藩主・綱紀は母・清泰院夫人(水戸黄門の姉)の逝去に際し位牌所として寛文二年(一六六二) に現在地に伽藍を建立し、寺領二百石を賜って、加越能三国の浄土宗寺院の触頭を務めることを命ぜられた。
 享保三年(一七一八)、伽藍が焼失したが、文化十年(一八一三)、十二代藩主・前田斉広によって再建された。
 徳川家康および秀忠・家宣・家継・家重・家慶・家茂・綱紀・母清泰院の位牌が安置されている。
 寺宝には、金沢市指定文化財で、南北朝時代の絹本著色三尊来迎図がある。
■小立野寺院群(「いし曳の道」掲載分)
 石浦神社金沢市本多町3-1-30 
 古くは石浦郷七村の産土神で、石浦村に鎮座し、石浦山王または地主権現と称せられ、社地は石浦町(現・香林坊) の裏、長町三番丁の入り口にあった。
 天正八年(一五八〇)、兵火にあい、慶長七年(一六〇二)、本多氏下邸内の地に移り、寛永十八年(一六四一)には本多政重によって祠殿が造営された。
 宝暦九年(一七五九)、再び火災にあい、寛政九年(一七九七)、本多政行が本堂を再建。文政元年(一八一八)、神殿を造立して遷座式を挙げたが、その後社殿が破損し、安政五年(一八五八)、造営を始め、明治元年(一八六八)、遷座式を執行したが、同年に神仏混淆が禁じられ、山王地主権現の称を廃して石浦神社と称した。
 加賀藩五代藩主・前田綱紀は子どもの誕生に際し安産を祈願したと伝えられ、以来、安産の神として信仰されている。祭神は大物主神・大山咋命・天照大神・菊理媛神・天児屋根命・市杵島姫命および誉田別命。
■小立野寺院群(「いし曳の道」掲載分)
 金沢神社金沢市兼六町1-3 
 加賀藩十一代藩主・前田治脩が寛政六年(一七九四) に藩校明倫堂、経武館の鎮守として天満宮を創建したのが始まりで、以後、竹沢御殿鎮守に引き継がれ、明治五年(一八七二)十月には竹沢天神社となり、明治七年(一八七四)六月、金沢神社と改称した。
 ご祭神には、前田家の先祖とされている菅原道真、併せて金運、災難除けの白蛇竜神、十二代藩主・斉広、十三代藩主・斉泰を祀っている。学間の神様である菅原道真を祀っているため、入学祈願などの参拝客が多い。
 また隣りには、金沢市名称発祥の地とされる金城霊沢がある。
■小立野寺院群(「いし曳の道」掲載分)
 椿原天満宮金沢市天神町1-1-13 
 菅原道真を祀り、永仁五年(一二九七)京都北野天満宮より勧請される。
 前田氏が領主となり、当宮を前田家の祈祷所とし、当時の金浦郷(犀川より浅の川に至る区域全部)の総社となって、田井天満宮と称した。
 寛永年間(一六二四~四四)、当宮「椿原山」と称した現在の処に社地を移転、社殿を改築造営する。
 明治六年(一八七三)、郷社となり社名を椿原神社と改称。
 明治十四年(一八八一)、社格を県社に列せられ、第二次大戦後社名を椿原天満宮とし、現在の地は風光明媚にして神々の宮居たるにふさわしい御社頭である。
■小立野寺院群(「いし曳の道」掲載分)
 瑞雲寺金沢市宝町6-13 
 竜峰山と号し、曹洞宗に属する。
 寛正六年(一四六五)、州山が越前南条郡府中(福井県武生市) に創建したことが起こりと言われる。
 天正十八年(一五九〇)、三代・蘭室が金沢に来た時、加賀藩初代藩主・前田利家の家臣寺西宗与が開基となり、木ノ新保に建立した。三代藩主・利常の時に、命により大乗寺坂の上に移った。しかし、明治十九年(一八八六)、その地が陸軍の用地となったことから、さらに宝円寺境内の今の地に転じた。
 塔頭長谷院は、元和七年(一六二一)に蘭室が建立したものであったが、今は独立の寺院となっている。
 慶応元年(一八六五)、二十四世竹堂和尚が、西国三十三番、秩父三十四番、板東三十三番、合わせて百体の観音建立を祈願し、講中五百人を集め、七ヶ年の歳月をかけて建立し安置した。
 昭和四十三年(一九六八)、ソ連抑留者が願主となり、異郷の地に亡くなった同胞の供養のために作られたダモイ観音が安置された。年に一度、帰還者が集い、法要が行われている。
■小立野寺院群(「いし曳の道」掲載分)
 上野八幡神社金沢市小立野2-4-1 
 約四百年間の神仏混淆の時代、医王寺と呼ばれていた。 天正年間(一五七三~九二)、能州石動山天平寺の僧・ 空山が後の加賀藩初代藩主・前田利家に内通し、石動山の麓に建立したと伝えられる。
 天正十二年(一五八四)、利家が金沢に移転した後、文禄二年(一五九三)、金沢の山崎郷(小立野白山町)に移転した。
 享保十六年(一七三一)、現在地に遷座し、明治五年(一八七二)、村社となる。また、境内には芭蕉句碑がある。
 ご神体は三十三年に一度ご開帳になるが、御興は年男によって担がれ、市中を練り歩く。
 秋まつりには、氏子らが踊りながら餅の曲づきをし、秋の実りに感謝する餅つき踊りが奉納される。この餅つき踊りは、現在金沢市無形文化財に指定されている。
■小立野寺院群(「いし曳の道」掲載分)
 田井菅原神社金沢市天神町1-3-16 
 当神社のご神体は、菅原道真より直接賜った自画像であると伝えられる。この自画像は、菅原道真が太幸府(福岡県太宰府市)へ左遷される途中、河内国の道明寺(大阪府藤井市)の伯母を訪ねた際、田邊左衛門に与えたもので、以来、田邊家では家宝として守り伝えた。
 後の田邊喜兵衛の代に、加賀藩三代藩主・前田利常より十村役(大庄屋)と代官を命ぜられ、代々その職を継いだが、邸内に社を建て、菅原道真の自画像を祭った。明治期には田邊家の庭園内に神社が建てられ、明治十三年(一八八〇)に、田井の生産神となった。
 境内には、芭蕉の「風流のはじめ奥の田植歌」との句碑が建ち、金沢に十一ある芭蕉句碑の一つに数えられている。
 また、鳥居は珍しい木製の杉材の瓦葺で、福井県勝山市の平泉寺白山神社の旧鳥居と同形である。
■小立野寺院群(「いし曳の道」掲載分)
 本行寺金沢市本多町2-9-34 
 久遠山と号し、現在は日蓮宗(旧顕本法華宗) に属する。
 元和三年(一六一七)京都の寂光寺二代目住職・ 本因坊算砂法号を本行院日海が創建した。
 日海は日本で始めての祺聖本因坊であり、加賀藩三代藩主・前田利常を三年間指南し、そのお礼に寺屋敷地所三千歩を賜り、本多安房守、横山山城守の庇護を受ける。日海は創建後、弟子・本照坊日至に二代日住職を託し、京都へ戻る。後に三度の火災に遭い、明治三十六年(一九〇三)に再建される。
■小立野寺院群(「いし曳の道」掲載分)
 石川護國神社金沢市石引4-18-1 
 はじめは招魂社と称し、卯辰山にある卯辰神社の下にあった。草創は、明治元年(一八六八)。越後奥羽の乱で戦死した加賀藩兵百八名のみたまを祀るため、加賀藩十四代藩主・前田慶寧の命を受けて建立された。以降、藩知事から米千俵を毎年寄付され、春秋の二回、祭典を執行した。
 後に、西南役の戦死者や日清・日露戦争の戦没者も合祀している。
 昭和十年、新殿を現在地に建立し、招魂社の神霊を遷座した。以来、大東亜戦争までの神霊を合わせ祀っている。昭和十四年四月一日、石川護國神社と改称した。
■小立野寺院群(「いし曳の道」掲載分)
 長周寺金沢市宝町11-1 
 醒井山と号し、真宗大谷派に属する。
 近江国(現滋賀県)坂田郡醒井城主・廣田因幡守重長は、出家して教西坊となり、嘉禎二年(一二三六)、当寺を創建する。
 文明三年(一四七一)、第七世・善知坊が本願寺八世・蓮如上人のお供をして北国で布教した折、近江国の醒ヶ井より金沢の石引に移った。
 天正十八年(一五九〇)、現在地に長周寺を建立した。
 上人との縁で、境内には蓮如上人の記念碑が建っている。毎年四月、二十五、二十六日に蓮如忌を行っている。
■小立野寺院群(「いし曳の道」掲載分)
 松山寺金沢市東兼六町5-6 
 円通山と号し、曹洞宗に属する。
 慶長四年(一五九九)、横山山城守長知が創建し、丹波国氷上郡の円通寺住職・ 融山泉祝を招いて開山とした。長知の父・ 長隆は、加賀藩初代藩主・前田利家の府中(現武生)時代の家臣である。松山は、長隆の戒名である。
■小立野寺院群(「いし曳の道」掲載分)
 猿丸神社金沢市笠舞3-23-15 
 金沢で最古の神社の一つであり、参道には天保十四年(一八四三)に造られたと伝えられる石灯籠一対がある。
 拝殿は、文久二年(一八六二)六月に再建されたもので、本殿は明治十八年(一八八五)十月に再建されたものである。
 この神社の創祀の由来は、三十六歌仙の一人で、小倉百人一首にある「奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の声聴く時ぞ秋は悲しき」の作者として知られる猿丸太夫の旧跡だと伝えられる。このような言い伝えから神社の名が付いた。
 本殿には十一面観音も安置され、毎年八月に観音講が行われる。また、大小四体の石造の猿像も安置されている。
 祭神が歌人であることから、金沢の文人たちによって奉納献句した扁額が、現在数点残っている。
■小立野寺院群(「いし曳の道」掲載分)
 瑞光寺金沢市本多町2-9-9 
 江西山と号し、臨済宗妙心寺派に属する。
 開山は、愚渓和尚、開基檀越は才道二、伊藤外記である。
 寛永九年(一六三二)、藩士・本多安房守が加賀藩三代藩主・前田利常に請い、寺地を新堅町に得て建立したが、慶安三年(一六五〇)、水害に遭い、替地を現在地に拝領し再建した。
 当寺の寺宝である木彫聖観音立像は、国運寺の観音と言われ、霊仏と称せられている。国運寺とは、瑞光寺の本寺にあたり、卯辰山感応寺の南谷にあったが、無住となったため瑞光寺に合併されたものである。この観音立像は、高さ九十七センチ余りあり、自覚大師の作と伝えられている。尾張の国(愛知県)の海中より出現したものと言われた。第三番観音霊場札所でもある。
■小立野寺院群(「いし曳の道」掲載分)
 真行寺金沢市石引2-4 
 寛永八年(一六三一)、本多家家老篠井雅楽助は、豊臣方の武将木村重成の娘(当寺開基州岩太益和尚)が、重成の菩提を弔う為、現本多町に庵を開き、当時、大乗寺十五世謙室呑益大和尚に拝請し、開山第一世とし、加賀藩三代藩主前田利常より、金沢百姓町(現幸町)に御用地を拝領し、浄財を投じて一宇を建立した。万治二年(一六五九)、現在地石引(旧二十人町)に替地し、法隆山真行寺(曹洞宗) として現在に至る。寺宝に、前田家武人画家・矢田四如軒筆の絵画、六地蔵尊画像中軸(二幅)を所蔵する。又、厄除地蔵尊並びに地域各所の地蔵尊を地蔵堂に安置し、毎年八月二十二日に大祭を行っている。
■小立野寺院群(「いし曳の道」掲載分)
 仰西寺金沢市石引1-5-12 
 宮腰山と号し、真宗大谷派に属する。
 開山は、泰澄大師と伝えられ、はじめは石川郡大野庄宮腰(現・金石)に建立され、元明寺と称した。
 その後、寿永二年(一一八三)、木曽義仲の乱の時に兵火にあい、焼失したが、熊谷入道蓮生坊が再建し、天台宗を改めて念仏宗として、仰西寺と呼ばれるようになった。
 正応三年(一二九〇)、本願寺三世・覚如上人が北陸巡行の際、浄土真宗に改宗し、寺名も仰西寺と正式に改めた。
 寛永年間(一六二四~四四)、加賀藩三代藩主・前田利常から寺領を拝し、金沢の材木町へ移った。
 万治二年(一六五九)、明了師の時に現在地に移った。
■小立野寺院群(「いし曳の道」掲載分)
 波着寺金沢市石引2-18-1 
 泰澄山・白山または白流山と号し、 真言宗に属する。
 開山は、神亀(七二四~二九)の頃で、泰澄大師が越前(福井県)足羽郡一乗谷に創建したと伝えられるが、後年、兵火にあい、廃寺となった。
 天正(一五七三~九二)中期、安養坊空照法印が越前足南郡波着寺にいた頃には、府中在城であった(後の加賀藩初代藩主) 前田利家の祈祷所であった。このため利家の金沢城入城に際し、秘仏十一面観世音菩薩をはじめ、白山妙理権現、その他諸仏像とともに、金沢に招かれ、今の兼六園の地に寺地を得たが、元和五年(一六一九)、現在地に移転を命ぜられた。
 また、この寺には「お預け八幡」と称する八幡神社があり、寺内神殿を造って神体を祀ってあった。この八幡宮は、利家の時に金沢城本丸に安置してあったものだが、二代藩主・利長の時の落雷によって炎上し、 当寺に移された。
 明治二年(一八六九)、神仏分離令によって卯辰八幡宮へ合祀された。
■小立野寺院群(「いし曳の道」掲載分)
 経王寺金沢市小立野5-9-2 
 寿福山と号し、日蓮宗に属する。
 慶長六年(一六〇一)、加賀藩三代藩主・前田利常の生母・寿福院が越前府中(武生市)経王寺から養仙院日護を招いて創建。日護の師妙成寺十四世・寿福院の異母兄善住院日淳を開山とする。
 寛永八年(一六三一)四月、犀川橋詰め付近からの大火に被災。 正保四年(一六四七)、寿福院の十七回忌にあたり、利常によって再建。承応三年(一六五四)、五代藩主綱紀から寺領五十石を寄進された。明治初期金沢監獄に、同四十三年(一九一〇)、金沢医学専門学校に境内地約一万坪が収用され、現在地に移転する。
 加賀騒動の悲劇のヒロインお貞(真如院・六代藩主吉徳の側室) の墓がある。
 寺宝には、寿福院の寄付と伝えられる宝塔絵曼荼羅等三幅対の画像、木造彩色河灌明神立像、真如院御内仏などがあり、「寛永第六(一六二九)暦五月二十九日」の銘が入った五重石塔も有名である。
■小立野寺院群(「いし曳の道」掲載分)
 安樂寺金沢市東兼六町11-1 
 法真山と号し、浄土宗に属する。京都市左京区永観堂禅林寺を本山とする。
 慶長七年(一六〇二)、越前の脇田兵部重季が四百歩を拝領し、この地に建立。越前の僧立空等摂を招き開山とした。
 本堂に安置する地蔵尊は、端正な容姿をし、着衣には往時の色彩が残っている。
 加賀藩三代藩主・前田利常の小姓脇田猪之助の位牌及代々の墓があり、脇田直賢は前田利長、利常、光高、網紀に仕え千五百石を拝領した。小将町にある玉泉園の作庭者でもある。町奉行、馬廻頭の役職をしていた。その子孫にあたる脇田和氏(一九〇八~二〇〇五)は、日本洋画壇の重鎮である。
 また、作家中野重治(一九〇二~七九)は、旧制四高の学生だった大正十一年頃、当寺に下宿し、著書「歌のわかれ」の作中には安樂寺の記述がある。
 地蔵尊市内四十八ヵ所巡り二十七番御詠歌
 主なき弥陀の御名にぞ生れける唱へすてたるあとの一声
■小立野寺院群(「いし曳の道」掲載分)
 乗円寺金沢市石引1-4-20 
 普照山と号し、真宗大谷派に属するが、はじめは天台宗普照寺と称した。
 文明の頃、住職・善永(江沼郡福田生まれ)は越前吉崎に在った蓮如上人を幾たびも訪ね、その教化を受ける。長亨一揆などを経た後、延徳元年(一四八九)秋、一念発起して真宗に転じ、乗円寺と改称した。
 二代・永乗は越前の永正一揆、四代・恵秀は大坂石山合戦に参加。戦功著しく、後日、本願寺より四藤紋など幾多の恩賞を拝領している。
 天正十二年(一五八四)、材木町へ移り、万治二年(一六五九)、小立野へ転居。
 元禄十年(一六九七)、本堂を再建したが、享和二年(一八〇二)、本堂より出火し、焼失。
 明治四十二年(一九〇九)、金沢大学医学部附属病院拡張のため寺地を摂取されたが、大正元年(一九一二)現在地に移り、本堂が完成した。
■小立野寺院群(「いし曳の道」掲載分)
 善徳寺金沢市石引1-15-8 
 城端山と号し、真宗大谷派に属する。
 開山は、慶長十九年(一六一四)、越中の城端善徳寺の主囘勝が金沢材木町に掛所を建立したことが起こり。はじめ掛所としていたが、後に支坊と呼び、明治十二年(一八七九)には善徳寺支院と名称を改めている。
 万治元年(一六五八)、加賀藩三代藩主・前田利常より、現在地三百三十三坪を賜り、移転する。後年、十四代藩主・前田斉泰によって客殿を寄進された。
 明治維新後、法務のみの道場となった。
 大正十二年(一九二三)の出火により、御先師御影および御代々御影などを安置する諸尊を除いて全て焼失した。
 本堂内陣前の欄間は、鶴来町出身の山本力吉の作である。
 平成六年八月二十三日、本院から独立して真宗大谷派善徳寺となり、今日に至る。
■小立野寺院群(「いし曳の道」掲載分)
 即明寺金沢市石引1-5-10 
 今浜山と号し、真宗大谷派に属する。
 文禄二年(一五九三)、開祖善龍法師が能登の国羽咋郡小川村に一寺を創建したことが起こりである。
 明治元年(一八六八)十二月、金沢区荒町へ移転したが、同十三年(一八八〇)には、同区彦三七番丁二十番地ノ一へ移転した。
 昭和二年四月の彦三大火で全焼。同四年十月、金沢市三所町四番地の一へ移転した。現在地は、金沢市石引一丁日五番十号である。
 現在地の建物は、武家造り(金沢市史・資料編17建築・建設に記載)で座敷御堂として本尊ならびに什宝物などを安置してある。
 什宝物には、本尊三方正面阿弥陀如来(作者不詳)・祖師御真影・聖徳太子御真影・蓮師御真影・七高祖御真影・女人済度六字名号・十字名号・御絵伝(祖師絵物語)等がある。
■小立野寺院群(「いし曳の道」掲載分)
 等願寺金沢市石引1-10-13 
 龍林山と号し、真宗大谷派に属する。
 慶長七年(一六〇二)、津幡弘願寺の隠居・遊林院の子、等覚坊龍念が森下町において創建した。
 弘願寺の「願」の字を賜り、寺号「等願寺」とした。
 万治二年(一六五九)、付近一帯が大火で全焼。加賀藩三代藩主・前田利常により、その跡地が御領地として召し上げられ、代替地として現在地を拝領、移転した。
 享保十六年(一七三一)、小立野の大火の際に再び類焼したが、石垣と本堂内陣は火災を免れ、当時のまま現在に至っている。
 現在の本堂外陣は、大正六年(一九一七)の再建によるものである。
■小立野寺院群(「いし曳の道」掲載分)
 了願寺金沢市東山1-37-1 
 栄照山と号し、浄土宗に属する。
 元和八年(一六二二)、金沢如来寺の五代・了願呑継が退隠し、当地に建立したと伝えられる。
 琵琶を弾く弁財天の「妙音弁財天」の銅像がひときわ目を引くが、これは、正信念仏を行う妙善上人を偲んで建立したものである。妙善上人は、明治二一年(一八八八)、金沢金谷町に生まれ、正覚華化生にならんと、晩年の昭和期には、琵琶を弾じながら説法、問答を行うのが常であったという。
 また、朝見大素の「かくるるに草は短し初蛙」の句碑や、儒臣・由比勝生の墓、延命地蔵尊などが建っている。
 うら盆会、大せがき会、彼岸会など、期日ごとに厳修している寺でもある。
■卯辰山山麓寺院群(「心の道」掲載分)
 菅原神社金沢市東山1-27-8 
 この神社は東茶屋街の鎮守社である。
 加賀藩十二代藩主斉広の時、文政三年(一八二〇)金沢に犀川、浅野川の両地において、はじめて妓楼を置くことを公許された。犀川は石坂町、浅野川は卯辰茶屋町にはじめて家屋を建て、営業をはじめた。その時観音町西源寺の後に菅原道真を祀り、芸妓たちの鎮守の神として崇められた。その後、現在の位置に移転する。
 太い木材を使った立派な梁が見られる社殿や、歴史を感じさせる小さな狛犬が二体、向かい合って建っている。
■卯辰山山麓寺院群(「心の道」掲載分)
 宇多須神社金沢市東山1-30-8 
 養老二年(七一八)、卯辰村字一本松に卯辰治田多門天社として創建されたことが起こりといわれている。社記によれば、浅野川の河辺の小丘のなかから掘り出した古鏡の裏面に、卯と辰の紋様があったので、これを卯辰神として祀ったとある。
 慶長四年(一五九九)、加賀藩初代藩主・前田利家が没し、天下が不穏な動きの中、二代利長が守山(現高岡市)で守護神としていた物部八幡宮と阿尾(現氷見市)の榊葉神明宮の神霊を遷座して、卯辰八幡宮を建立、同時に利家の神霊を祀り、藩社とした。廃藩置県により明治六年、尾山神社を建立し利家を遷座した。
 卯辰八幡宮は、明治三四年(一九〇一)卯辰山の古名が宇多須山ということから宇多須神社と改称された。
 境内奥手には、五代綱紀が疱瘡にかかった折、綱紀の光景人であった利常の命により、湯を沸かしたご神水に酒を入れ「酒湯(ささゆ)」を作り、体にかけて病気を平癒したとする、ご神水の井戸水の跡が、「利常公酒湯の井戸」として残っている。
■卯辰山山麓寺院群(「心の道」掲載分)
 松尾神社金沢市鶯町28 
 酒造商業の守護神松尾明神と災害厄除けの祇園大神の二柱を主祭神として祀る。
 織田信長が安土城内に松尾明神を祭祀したのを、天正三年(一五七五)加賀藩祖前田利家が越前府中(福井県武生市)へ入府の頃、松尾明神を信長より譲り受け、府中の城内に祀る。同九年能登に移府のとき七尾に移し、同一一年金沢入城とともに城内に鎮座した。
 藩祖利家が金沢入城のみぎり金沢の東と西に祇園社を建立し、東乃祇園と呼ばれていた当社境内に、元禄一一年(一六九八)片町の酒造業宮竹屋が金沢城外に祀ることを五代藩主前田綱紀に陳情し、加賀、能登、越中三ヵ国の酒造商業の守護神として、一社を建立し、現在に至る。
 御祭神
 松尾明神(大山昨命)
 祇園明神(素戔鳴尊)
 天神さん(菅原道真)
■卯辰山山麓寺院群(「心の道」掲載分)
 西養寺〒920-0033金沢市東山2-11-35 
 越前府中(福井県武生市)清澄山と号し、天台宗に属する。
 もと天台宗真盛派五ヶ寺の一つで、開山は盛学である。
 七代目住職・真運の時に、府中に在城していた後の加賀藩初代藩主・前田利家は、当寺へ参詣し帰依した。後の二代藩主・利長もまた度々参詣し、真運への信望が厚かった。そのため、利長が越中国の守山・富山・高岡と移住した際には、随従して移転、親しく奉仕したのである。
 利長の時代の慶長七年(一六〇二)、金沢市八坂町に寺を建立したが、慶長一七年(一六一二)、眺望絶景の当地に移転し、本堂・聖天堂・観音堂・護摩堂・稲荷堂・鐘楼・地蔵堂などの諸堂を建立した。八代快恵の時、真盛派を離れ、延暦寺派となる。加賀藩より一五ヶ条の制書を附与せられ、加・越・能の天台宗寺院の觸頭に任ぜられた。
 当寺には、俳人宮竹屋小春、剌客斉藤金兵衛先祖代々、紀行「能登日記」作家田辺政巳、加賀藩農政学者高澤忠順(平次右衛門)の墓がある。
■卯辰山山麓寺院群(「心の道」掲載分)
 誓願寺金沢市東山2-19-21 
 来迎山と号し、浄土宗鎮西派に属する。
 運誉寿光上人が寛永一三年(一六三六)、金沢六枚町に建立し、寛文一一年(一六七一)、二代・清源上人の時に、六百歩の寺領を拝領し、当地に移るが、それ以前は鎌倉に建立されていた説あり。
 この寺には、本尊阿弥陀如来像、修行時の釈迦の姿である苦行釈迦像、東茶屋街の商人が商売繁盛を願い、芸妓が芸能の上達を祈願した開運弁財天像、箸供養で歯痛治癒祈願の観世音菩薩石像、千躰仏像、釈迦涅槃図等が祀られている。
 また、加賀藩の金箔製造公認に功労した越野左助、氷室饅頭元祖の道願屋彦兵衛、加賀藩御用達の若松飴元祖の飴屋弥兵衛の墓などがある。
■卯辰山山麓寺院群(「心の道」掲載分)
 真成寺金沢市東山2-25-73 
 妙運山と号し、日蓮宗に属する。
 正保四年(一六四七)妙成寺一五世日條上人を開山とする。はじめは能美郡小松(小松市)に建立した。当山の鬼子母神は、昔小松城主であった丹羽長重が尊宗して城中に安置されていたものである。加賀藩三代藩主・前田利常が深く信仰し、伯父である日條上人に託して、当山の建立となった。
 利常が逝去されてから、万治二年(一六五九)金沢の小川町に転じ、寛文一一年(一六七一)、当地に寺を建てた。
 寺所有の産育信仰資料九六六点は、重要有形民俗文化財指定されている。境内には、初代中村歌右衛門の墓、加賀蒔絵の祖・五十嵐道甫の碑、人形供養塔などが建っている。
 また泉鏡花の『鶯華径(おうかけい)』の舞台でもあり、「鬼子母神様は母様が御信仰なすった、さうしてあの仏様は小児を守って下さるんだつて、いつでもおつしゃつたから、始終遊ぶのに来て居た処で…」と、鬼子母神のことが記述されている。歌舞伎俳優初代加賀屋で有名な中村歌右衛門の墓がある。
■卯辰山山麓寺院群(「心の道」掲載分)
 三宝寺金沢市東山2-25-5 
 弘法山と号し、日蓮宗に属する。
 寛永二〇年(一六四三)、能登滝谷(現羽咋市)妙成寺一七世・日伝上人が小松に建立した。そこでは加賀藩三代藩主・前田利常の生母・寿福院の位牌所にもなっていた。
 後に、寛文一一年(一六七一)、金沢に移った。
 寺内には、秋山神を安置するが、この仏を参ると痔疾に効験があるといわれており、御利益を願って参詣する人も多い。
 寺宝には、不動・愛染(絹本)・妙見尊の画像などがある。
■卯辰山山麓寺院群(「心の道」掲載分)
 本光寺金沢市東山2-19-43 
 鳳栄山と号し、法華宗に属する。
 京都本能寺の開基・日隆上人は越中国守護桃井直常の族流、桃井左馬守尚儀の子で、生誕地の越中国射水郡浅井郷島村に応永二三年(一四一六)に本寺を創建したことが起こりである。
 その後、二代藩主前田利長が高岡守山に在城の時、寺地を守山に拝領しその後、富山、高岡と移り、利長金沢城在城の時、寺領を泉野寺町に拝領、しかしまた高岡に赴き、後、再び金沢に戻って、小立野に移った。慶安三年(一六五〇)、三代藩主・前田利常に願って、現在地に九〇〇坪を給り、堂宇を建設した。
 現在は、境内二〇〇〇坪という広い敷地を有する。有名墓碑には狂歌師・堀越左源次、北海道開拓・林顕三の墓などがある。
■卯辰山山麓寺院群(「心の道」掲載分)
 妙国寺金沢市東山2-18-9 
 日向山と号し、日蓮宗の寺である。
 開山は、慶長一九年(一六一四)、富山妙国寺の住職・身命院日全の創建による。
 日蓮の作と伝えられる大黒天像を安置しているので、俗に大黒寺とも呼ばれている。境内にある大黒堂は、この寺の一一代日・孝寿院日亀の時に、はじめて堂宇を建立したといわれるものである。
 今も千部読誦会・法華一懺悔会などが執り行われている。
 蕉門中興の人と称された俳人成田蒼?の墓がある。
 富山反塊円の製薬の元祖は浄閑翁といわれているが、日全が浄閑翁に反塊丹の薬方を伝授していた。
■卯辰山山麓寺院群(「心の道」掲載分)
 小坂神社金沢市山の上町42?1 
 創立は神社によると養老元年。中世になってたびたび兵火を受け、社殿・縁起・記録などを焼失したが、寛永一三年(一六三六)、加賀藩三代藩主・前田利常の命により現地にて再興。以来、金沢北郊鎮護の大社として藩主前田家はもとより衆庶の尊信をあつめた。
 宇多須神社・神明宮・椿原天満宮・安江八幡宮とともに、金沢五社の一つに定められ、藩主自ら参拝を奨励し、五社を祈願し、めぐれば開運招福を成就されるといわれた。
 御祭神は、経津主神・天児屋根命・比咩大神・武甕槌命・饒速月命。また、小坂庄の総社として延喜式内加賀十三庄の中の一社でもあり、この地方一帯が奈良の春日社の社領であったことから春日神も祀られ、古来より人々から「春日さん」と呼ばれ、親しまれている。
 本殿は寛永一三年の建立といわれる。木々に囲まれた長い階段の中腹には、芭蕉の「此の山の神にしあれば鹿に月」の句碑が建つ。
 金沢の俳人北枝は「此神の山なればこそ花に鹿」と詠んでいる。
■卯辰山山麓寺院群(「心の道」掲載分)
 心蓮社金沢市山の上町4-11 
 金池山と号し浄土宗に属する。
 開山は、慶長一七年(一六一二)、京都大本山清浄華院(現京都上京区)法主・休誉の創建である。当初は塩屋町にあったが、寛永一四年(一六三七)、当地に加賀藩三代藩主・前田利常から一七八〇歩が下賜され、移転した。なお休誉は上杉謙信の七尾城攻略の際、一族のほとんどが殺された長氏の生残りと言われている。
 平安時代末期頃のものとされる寺宝・絹本著色阿弥陀三尊来迎図は、国の重要文化財に指定されている。これは俗称「開眼きの阿弥陀」といわれ、源満仲の妻が、満仲に殺されたと思っていた息子が身代わりの死により生きていたことを知り、感謝供養をしたところ悲しみで失っていた視力を回復したとの伝説をもつものである。
 境内には芭蕉十哲の一人・立花北枝や俳人・高桑蘭更、化政期において藩政改革の先駆者であった寺島蔵人の墓などがある。庭園は、市の名勝に指定されており、めでた造りといわれる遠州流庭園である。
■卯辰山山麓寺院群(「心の道」掲載分)
 観音院金沢市東山1-38-1 
 長谷山と号し、高野山真言宗に属する。
 開基などは定かではないが、本尊の十一面観音は、行基作といわれる大和長谷寺(現奈良県桜井市)の十一面観音菩薩の末木を天平年間、野々市の里に住んでいた芋掘藤吾郎が賜り、彫り刻んだものと伝えられている。
 慶長六年(一六〇一)、この観音像が当初あった石浦村から卯辰山へと移された折、加賀藩二代藩主・前田利長が観音堂と山王社を造営した。元和二年(一六一六)には、三代藩主・前田利常夫人(徳川二代将軍・徳川秀忠の娘)の発願により、当地に医王院が造営された。
 元和三年(一六一七)、利常の次男・利次が同院に参詣した折、猿楽を奏させたことがはじまりとなった。毎年四月一・二日の両日には、神事能が催されることとなり、庶民の娯楽となった。
 明治二年(一八六九)神仏混淆の禁止で、観音院の仏像、仏器を観音院の別当であった医王院(現在の観音院)へ移され現在に至る。
 和算の大家関孝和、顕微鏡を製作した松田東英、歌舞伎俳優中村芝加十郎等の墓がある。
■卯辰山山麓寺院群(「心の道」掲載分)
 實相寺金沢市東山1-4-25 
 黎明山と号し、真宗大谷派に属する。
 安永三年(一七七四)、真宗東派願楽寺第五世・智清の三男であった覚円が独立し、文化元年(一八〇四)に本願寺より寺号が許可された。
 明治一三年(一八八〇)、菊田霊明が彦三町に寺院を創設した際に譲り受け、寺号公称が許可され、昭和三九年(一九六四)、当地に移転した。
 本尊は二尺一寸の阿弥陀仏の立像である。寺宝には、宗祖大師真影一幅、蓮如法主画像一幅などがある。
 三味線の祖である越中屋与兵衛の墓がある。
■卯辰山山麓寺院群(「心の道」掲載分)
 蓮昌寺金沢市東山2-11-23 
 普香山と号し、日蓮宗に属する。
 天正一〇年(一五八二)の創建。日蓮宗・大本山京都妙顕寺の門末として、加越能三国の触頭をつとめた寺格をもち、加賀藩三代藩主・前田利常の生母である寿福院の帰依所でもあった。
 金沢三大仏の一つに数えられる、丈六の釈迦如来立像を安置する。
 なお当山は、泉鏡花の絶筆小説『縷紅新草』の舞台として知られ、鏡花はこの寺の石段から眺めた金沢の景観を「荒海ながら、日和の穏かさに渚の波は白菊の花を敷流す・・・・・・この友禅をうちかけて、雪国の町は薄霧を透して青白い。」と表現する。
 また山内には、俳人秋之坊の碑や利常の正室として珠姫(天徳院)入輿の際、警固の命を承けて将軍家から派遣された甲賀五三家の一・多羅尾家の墓などもある。
 附記
 この山門は、金沢城の表門と同型の高麗門。普通の屋根以外に左右の控柱の上にも屋根があるのが特色である。
■卯辰山山麓寺院群(「心の道」掲載分)
 月心寺金沢市山の上町1-43 
 光巖山と号し、曹洞宗に属する。
 開山は、慶安三年(一六五〇)、宝円寺七代目・ 傑外雲英和尚が、卯辰山下に創立し、二世龍澤和尚をもって寺主とした。
 明暦元年(一六五五)、元如来寺町に移り、万治元年(一六五八)、さらに油木山蓮昌寺跡の当地に移った。
 裏千家の祖・仙叟宗室の墓や歌碑がある寺として知られている。茶室・直心庵は天保(一八三〇~一八四三)の頃の一井庵の古材が使用されており、仙叟の命日である二三日には、毎月、追善茶会が催されている。
 仙叟宗室居士、大樋長左衛門代々の墓などがある。
■卯辰山山麓寺院群(「心の道」掲載分)
 九万坊寺金沢市東山2-25-55 
 奈良にある金峯山寺を祖とし建立された当寺は、うっそうとした山林の急斜面の山腹にある。
 九万坊大権現霊像が祀られ、春と秋の二回の大祭(五月二三日・一〇月二三日) には、県内外からの多くの参拝客で賑わう。
 坊の中には、仏像経典の焼却の碑がある。当寺には、悩む女性の信者が多く参詣した。
■卯辰山山麓寺院群(「心の道」掲載分)
 卯辰山三社金沢市東御影町 
 卯辰山三社とは、愛宕神社、卯辰山天満宮、豊国神社の三社をいう。
 卯辰山天満宮は、慶応三年(一八六六)一四代藩主・ 慶寧が庶民のための福利を図らんとして卯辰山開拓時に、 守護神として兼六園にあった竹沢御殿の天満宮をこの地に移した。
 豊国神社は旧郷社で主祭神は豊臣秀吉と愛宕大神、江戸時代は卯辰山王または卯辰観音と称していた。
 明治元年(一八六八)の神仏分離令の際、秀吉を主神とし豊国神社と改称した。後に村社である愛宕社を合祀し、明治一九年(一八八六)、氏子地の殿町に移ったが、明治四〇年(一九〇七)、現在地に移り、村社・卯辰神社を合併した。
 寺宝の刀は、 県指定文化財になっている。
■卯辰山山麓寺院群(「心の道」掲載分)
 覚林寺金沢市末広町21 
 臥龍山と号し、浄土真宗本願寺派に属する。
 文明三年(一四七一)蓮如上人が北陸巡化の砌、八代慧燈大師が上人から六字の名号直筆と自作の木造を授けられた。上人の信徒覚林が一字を五宝町(笠市町)に建立し、覚林寺と称した。歴代住職の教化で一時は盛んであったが、後、留守寺となった。享保九年(一七二四)五月一日海林法師が五世を相続、再興した。
 明治一一年(一八八七)、寺号を名乗ることを許され、明治一五年(一八八二)、五宝町から現在地に移った。
 以後、向山の蓮如さんと親しまれ、昭和二〇年まで御開帳の四月二五日が市内の休日とされ、多くの善男善女の参詣による蓮如忌法要が営まれてきている。
■卯辰山山麓寺院群(「心の道」掲載分)
 善妙寺金沢市末広町4-2 
 立向山と号し、日蓮宗に属する。
 創建、慶応四年(一八六八)開山、道樹院日教上人、慶応三年、加賀藩主・前田斉泰が卯辰山開発の折に、庚申塚土中より、日月天子像が出現した。藩主これを立像寺・日教上人に託し、祭祀させたのが当寺のはじまりである。後、明治一二年(一八七九)に束京芝、日本榎、承教寺塔頭、善妙院を移し身延未となる。 大正一〇年(一九二一)に市の卯辰山公園整地計画により、約二丁下った現在地に移転。昭和一七年(一九四二)に寺号改称し、善妙寺となる。平成四年から、修理及び庫裡を新築し現在に至る。 泉鏡花ゆかりの摩耶夫人尊天安置。隣接地に、台座八メートル、身長五・三メートル、大正七年一〇月六日除幕式の日蓮大聖人の銅像がある。
 当寺では、毎月第二日曜日に、唱題行、御遺文に聞く会、第三火曜日には写経の集いを行ってる。
■卯辰山山麓寺院群(「心の道」掲載分)
 宇多須神社奥宮金沢市卯辰町 
 養老二年(七一八)今の浅野川の川辺の小丘の中より得た古鏡の裏面に卯と辰との紋様があったので、これを卯辰山神として卯辰村字一本松のこの地に卯辰治田多聞天社として創建された。
 延享三年(一七四六)卯辰八幡宮の境内地(現在の宇多須神社)に遷座し、弁財天・大黒天を配し、福禄寿を賜い、知恵弁才を授け、殊に疫神消除の神として俗に“毘沙門さん”と呼ばれ親しまれている。
 毘沙門さんの御遷座の証しは、六月に宇多須神社から奥宮へお帰りになる『お上がり』神事、九月には宇多須神社にお帰りになる『お下がり』神事という神輿渡御行列により現在も連綿と守り伝えられている。
■卯辰山山麓寺院群(「心の道」掲載分)
 寿経寺金沢市東山1-31-5 
 光明山と号し、浄土宗に属する。
 元和九年(一六二三)、金沢如来寺五代・超誉了願呑継の創建といわれる。
 門前には、「七稲地蔵」が安置されている御堂が建っているが、これは、安政五年(一八五八)、領内に大飢饉が起こり、米価が高騰して、騒動が起きた事件にまつわるものである。
 物価暴騰に苦しんだ庶民は、同年七月一一・一二日の夜、卯辰山山頂に登り、大声を挙げて藩主に向かって生活難を直訴した。この際に、暴従として五人が処刑され、二名が牢死した。その首謀者たちの霊を供養するため、胸に稲穂を抱いた姿の「七稲地蔵尊」が建立されたものである。
 和算の梅沢儀三郎の墓がある。
 寺宝として、心岩和尚の筆による弁財天画像がある。
■卯辰山山麓寺院群(「心の道」掲載分)
 宗龍寺金沢市鶯町41-1 
 対巌山と号し、曹洞宗に属する。
 慶長一七年(一六一二)、不破源六が塩屋町において、寺領七百歩を得て開基。父の法名を冠して宗江寺と称した、僧・明庵を招いて開山した(宝円寺第四世・ 量山繁応和尚が隠棲して創立したとの説もある)。
 明庵長老は元和九年(一六二三)三代藩主前田利常の正室珠姫(徳川二代将軍の姫)逝去の節、剃髪の儀式、亡骸の番の役を勤めた。そのお礼に、亡骸の廻りに立ててあった屏風一双と机一脚を賜っている。
 のちに跡継ぎに関する争議が起こって分散したが、万治三年(一六六〇)、岡島市郎兵衛が請うて寺を小立野に建立し、禄一五〇〇〇石を領し人持組頭岡島一元(宗龍宗竜居士)の法名を冠して宗龍寺に改め、当地に転じた。学徳ある詩人として著名な仏后惟宗、詩人賀古群吾郎の墓がある。
■卯辰山山麓寺院群(「心の道」掲載分)
 広昌寺金沢市鶯町48 
 幽玄山と号し、曹洞宗に属する。
 開山は、慶長元年(一五九六)、羽咋市永光寺中興の僧・久外香良と伝えられている。
 慶安二年(一六四九)、林道上人が金沢塩屋町に移したが、寛文一〇年(一六七〇)、加賀藩の命により寺地を当地に賜った。
 年中行事として、毎月一回、秋葉講など行っている。
 画師・福島元興、明治の女子新聞記者である岡田愛子の墓などがある。
■卯辰山山麓寺院群(「心の道」掲載分)
 本蔵寺金沢市東山2-11-44 
 遊四方山と号し、日蓮宗に属する。
 元和八年(一六二二)、加賀国河北郡車村の宝乗寺第一九世・日運上人が、京都の妙顕寺より曼荼羅を授かり、同所に建立した。
 文政五年(一八二二)、現在地に移った。
 約一五〇坪の境内には、本堂・庫裡・山門などがある。
■卯辰山山麓寺院群(「心の道」掲載分)
 常福寺金沢市東山2-14-1 
 久栄山と号し、日蓮宗に属する。
 開山は、妙成寺誌によれば、正保四年(一六四七)日條上人高道町に建立とある。
 初め卯辰山にあったが、 明治元年三月五日、焼失したため、長久寺の客殿を移し、明治二年(一八六九) 今の地で再建された。
 境内は約二〇〇坪で、本堂・庫裡・ 山門などがある。
■卯辰山山麓寺院群(「心の道」掲載分)
 全性寺金沢市東山2-18-10 
 妙具山と号し日蓮宗に属する。
 開山は、大永二年(一五二二)日仁上人の創建といわれる。
 当初は越中放生津(現富山県新湊市)にあったが、その後、二代藩主・前田利長に従い、越中富山、守山(富山県高岡市) と移転した。天明六年(一七八六)、現在地に移った。
 当寺の不動明王は、一〇代藩主・前田重教の守本尊で、重教が世嗣となった宝暦三年(一七五三)、重教の生母実成院から預けられたものである。本堂には、摩耶夫人も安置されている。
 紅殻塗りの山門には、大小多数のわらじがかけられている。これは、健康や健脚を願って奉納されたものである。
 泉鏡花の『夫人利生記』の舞台でもあり、「俗に赤門寺と言ふ。・・・・・・門も朱塗りだし、金剛神を安置した右左の像が丹であるから、いづれにも通じて呼ぶのであらう」と、山門や金剛神、わらじに関する記述がある。
 能楽師諸橋権之進・宝生紫雪・服部弥五郎・相馬勝之の墓がある。
■卯辰山山麓寺院群(「心の道」掲載分)
 妙圓寺金沢市山の上町1-36 
 教徳山と号し、日蓮宗に属する。
 開山は、寺記によれば天正一四年(一五八六)、日相の創建とある。
 延宝町絵図によると、屋敷はほぼ三〇間四方であった。
 境内は四二〇坪で、本堂・庫裡・山門などがある。基地は二四六坪である。
 当寺には、守護神として、開運の神九曜星を祀る。明治時代に繁栄をきわめた。
 藩校の明倫堂で書を講じた河野四郎右衛門の墓がある。
■卯辰山山麓寺院群(「心の道」掲載分)
 本法寺金沢市山の上町1-34 
 松倉山と号し、日蓮宗に属する。
 開山は、天正一五年(一五八七)、日随が越中新川郡松倉に創建したと伝えられる。後に、金沢の浅野川下堀川に、加賀藩三代藩主・前田利常の内意をえて祈祷所に命ぜられ、寺地を給った。その後、当地に寺領二二〇歩あまりを拝領し、移転した。
 年中行事には、無縁施餓鬼会・最上稲荷大明神大祭などがある。
 刀工三代信綱・信友系の墓などがある。
■卯辰山山麓寺院群(「心の道」掲載分)
 乗光寺金沢市山の上町9-23 
 横根山と号し、真宗大谷派に属する。
 開山は、天和元年(一六八一)、越中(現小矢部)の乗光寺一五代・円春が岩根馬場に建立し、旅屋と称した。天明三年(一七八三)当地に移り、現在の寺号を称する。
 本尊は、安阿弥の手によるといわれる一尺二寸の阿弥陀仏である。寺宝には、宗祖大師真影一幅、琢如法主画像一幅などがある。
■卯辰山山麓寺院群(「心の道」掲載分)
 円長寺金沢市東山1-4-40 
 藤嶋山と号し、真宗大谷派に属する。
 開山は、越前国藤島村(福井県福井市)超願寺の僧・道清によるもので、天正一四年(一五八六)、大鋸屋町に創建したことが当寺の起こり。その後、慶長元年(一五九六)、当地において建立した。
 由来によれば、加賀藩三代藩主・前田利常が卯辰山周辺に鷹狩りを行った際、たびたび小休憩所としてこの寺を利用したと伝えられている。その縁により没後、利常の位牌を守り、現在も安置されている。そのため剣梅鉢の袈裟使用などが許されている。
 六角造りの一切経蔵は、慶応元年(一八六五)閏五月御輪堂として建立され、現在も一切経が大切に保管されている。
■卯辰山山麓寺院群(「心の道」掲載分)
 即願寺金沢市東山2-1-24 
 常護山と号し、真宗大谷派に属する。
 開山である念西は、信州高森の郷士・高森壱岐守秀知と称し、天正一三年(一五八五)、越中国新川郡黒崎村に住んでいたが、同一七年(一五八九)金沢に移った。文禄四年(一五九五)、金沢中町において本寺を創建し、即願寺と号した。
 万治四年(一六六一)、現在地に移った。
 本尊は三尺三寸の阿弥陀如来である。
 寺宝には、聖徳太子木像、蓮如上人御筆二軸、蓮如法主画像一幅、親鸞筆月影歌一軸などを有する。
■卯辰山山麓寺院群(「心の道」掲載分)
 慈雲寺金沢市東山2-10-10 
 雨寳山と号し、法華宗真門流に属する。
 当寺は、天正五年(一五七七)、鹿島郡所口(七尾) において、建立された。元和元年(一六一五)能登七尾より金沢の当地へと移った。
 天正一三年(一五八五)七尾城の守将となった富田治部左衛門景政と今井彦右衛門の菩提寺として建立された。開山は、雨寳院日祐である。
 加賀藩初代藩主・前田利家の金沢城入城に伴い、前田家兵法指南役で、景政の養子、冨田越後守重政も金沢へ移った。
 寺蔵の毘沙門天は加賀藩九代藩主・前田重靖の守本尊で、毎年一〇月、金沢城内に迎えられ、拝礼するのが習わしであったといわれる。
 冨田流剣法の冨田重政・郷土史家冨田景周など富田家一門の石室や五輪塔の墓がある。
■卯辰山山麓寺院群(「心の道」掲載分)
 円光寺金沢市東山2-14-8 
 妙法山と号し、日蓮宗に属する。
 起こりは、大永元年(一五二一)、能登滝谷(現羽咋市)妙成寺六代・日存上人によって創建されたといわれるが、旧地は定かではない。
 後の加賀藩二代藩主・前田利長が守山在城時代に、寺地を賜った。また富山、高岡と利長に従って移り、後に寛永一三年(一六三六)、当地に寺を移した。
 この寺には、利長が高岡在城の頃に守本尊として信仰した観世音菩薩像が安置されている。
 今も、宗祖御会式、観世音祭礼を勤修している。
■卯辰山山麓寺院群(「心の道」掲載分)
 長久寺金沢市東山2-14-60 
 妙光山と号し、日蓮宗に属する。
 開基は、文禄二年(一五九三)越中砺波郡今石動本行寺僧日統建立。玉泉院(二代藩主前田利長正室) の祈祷所であった。玉泉院逝去後は三代藩主前田利常側室妙雲院(古和)の菩提所となる。妙雲院は加賀八家本多政長に嫁いだ春姫の生母である。
 政治結社忠告社を起こした杉村寛正の墓がある。
■卯辰山山麓寺院群(「心の道」掲載分)
 妙光山日蓮宗に属する
 蓮華寺金沢市東山2-17-1 
 妙法山と号し、日蓮宗に属する。
 開山は、正保二年(一六四五)、能登滝谷(現羽咋市)妙成寺一七世・日伝の創建といわれる。
 はじめは、浅野川塩屋町の近辺にある勘解由町にあったが、次いで卯辰山の上小川町に移り、明治八年、当地に転じた。
 寺宝には、大曼荼羅、虚空蔵菩薩がある。
 この虚空蔵菩薩像は、寺記によれば、行基菩薩の作で、今日までの約一三〇〇年の間に、奈良より京都・金沢を経て、能登の七尾に至り、藩政の初期再び金沢に着いて当寺に安置されたとある。京都においては、今昔物語に出典の嵐山の真言宗法倫寺の虚空蔵菩薩は、平安朝より「一三参り」として都人の間に厚く信崇され、特に在京の絵画・彫刻・陶芸・漆芸などの関係者によって、深く信仰されていた。 よって今も、 絵画や工芸関係者による参詣が多い。
■卯辰山山麓寺院群(「心の道」掲載分)
 妙泰寺金沢市東山2-17-15 
 大谷山と号し、日蓮宗に属する。
 慶長一五年(一六一〇)、越前脇本妙泰寺の住職・本妙院日仁上人が建立した。
 元和元年(一六一五)、豊臣秀吉の養女となった加賀藩初代藩主・前田利家の娘・豪姫と宇喜多秀家の間に生まれた子女・理松院を葬った。理松院は二代藩主・前田利長の夫人である玉泉院の養女になった関係で、 玉泉院より大衆免村領二反が下賜された。また、寛永六年(一六二九)には、三代藩主・前田利常からも寺領が認められたという。
 境内に五輪の理松院の墳墓があり、昔この墳墓に歯痛で難儀する人が、食箸を供えて祈願すると平癒するということで、 祈願する人が絶えなかった。
 寺宝には妙顕寺第三一世日貞・日蓮曼荼羅などがある。
 年中行事として、御会式、稲荷祭礼、彼岸会、五年に一度の法華千部会ならびに法華懺法会を厳修している。
■卯辰山山麓寺院群(「心の道」掲載分)
 蓮覚寺金沢市東山2-18-27 
 山号は本学山。日蓮宗の寺である。
 慶長六年七月(一六〇一)善行院日安によって開山された。日安は、元真言宗の僧であったが、 京都の妙顕寺第十二世玄孝院日堯の教えを受けて改宗した。
 その後、金沢に来て卯辰山の麓に草庵を結び、布教に努めた。慶長十一年に信者の清水谷清右衛門などの助力により寺が完成した。寺号の「蓮覚寺」は、清右衛門が玄孝院日堯から授かった法号「蓮覚日就」による。
 所願成就の守護神「七面大明神」の画像がまつられているので、一般に「卯辰の七面さん」と呼ばれている。その画像は鎌倉時代の絵師・ 土佐信之の作といわれていたが、平成六年金沢市の調査で、室町時代に土佐派の絵師が描いたものと鑑定された。十九年に一度しか開帳されないので、平常は寛文二年(一六六二)作の胡粉極彩色木像(高さ約四十六センチ)の七面大明神を拝んでいる。
 墓地には、加賀藩三代藩主前田利常の母・寿福院の生家である上木家歴代の墓、辰已用水の開削者・板谷兵四郎のものと言われる墓、金城学園の創始者・加藤せむ女史の墓、明治大学法学部創立の功労者・ 尾佐竹猛氏の墓などがある。
■卯辰山山麓寺院群(「心の道」掲載分)
 浄教寺金沢市山の上町34-35 
 幽谷山と号し、真宗大谷派に属する。
 明治二年(一八六九)一二月に寺号の公称が許された。
 境内は約五○○坪で、本堂・庫裡・山門などがある。
 毎年、四月二四、二五日には蓮如忌があり、その折には、蓮如画が飾られる。
 加賀友禅作家の談議所栄二の墓などがある。
■卯辰山山麓寺院群(「心の道」掲載分)
 妙正寺金沢市東山2-18-8 
 広布山又は精進山と号し、日蓮宗に属する。
 開山は、永仁二年(一二九四)、日蓮大聖人の最後の直弟子・ 龍華樹院日像上人が上洛の折、石川郡大野村にいたり、民家で法談を試み、妙正寺の寺号と曼荼羅を残したのが寺の起こりといわれている。
 天正年間(一五九〇年頃)の兵火により、堂宇および曼荼羅の一切を消失したが、元和元年(一六一五)、能登滝谷(現羽咋市)妙成寺一五世の正覚院日條上人が寺を再興した。
 当寺は加賀藩一三代藩主・前田斉泰の生母、小野木八百子姫(栄操院)の祈願所であったことから、手厚い保護を受けた。寺の正面入り口にある石段は幅二間半(約四・五メートル)もあり、格の高い武将や寺社にしか使用が許されなかったという赤戸室石も敷かれている。
 寺宝の唐金立像釈尊像は、金沢で一番古いといわれる立姿のお釈迦様である。
■卯辰山山麓寺院群(「心の道」掲載分)
 静明寺金沢市材木町28-18 
 開山は慶長一七年(一六一二)、日術上人による。守長山と号し、法華宗に属する。
 日術上人は越中高岡本陽寺に住し、 静明院と称していた。 本陽寺は、慶長一六年に他界した加賀藩二代藩主・前田利長の息女満姫の菩提所になったために、 日術上人は特に利長に請い寺地を金沢で拝領した。はじめは、八坂松山寺と鶴林寺の間で当寺を建立した。後年、八坂の崖崩れにあい倒壊し、天保九年(一八三八)、八代目・日修上人の時に当地に移った。
 この寺は徳田秋声の家の菩提寺としても知られ、秋声の小説『不安のなかに』にも登場している。昭和五七年(一九八二)に、東京で亡くなった秋声の骨を当寺院に分骨。井上靖氏の筆による徳田秋声碑が境内に建てられている。加賀藩に仕えた学者・安達幸之助の遺髪を納めた墓や、加賀宝生流能楽師・石浦辰二郎の顕彰碑、詩文をよくした小谷継成の墓もある。継成は、室鳩巣室門七弟の一人であった。
■卯辰山山麓寺院群(「心の道」掲載分)
 西源寺金沢市東山1-23-17 
 木越山と号し、真宗大谷派に属する。
 開山は、元亀二年(一五七一)、欽徳が今町(現尾張町)に創設したと伝えられる。その後、当地に移る。本尊は、聖徳太子御自作と伝えられる高さ三尺の阿弥陀如像である。境内には本堂、鐘楼、山門などがある。
 寺宝には、聖徳太子画像一幅、七高僧画像一幅、蓮如上人画像一幅、阿弥陀画像一幅などがある。また、親鸞聖人御絵伝四幅を有する。
■卯辰山山麓寺院群(「心の道」掲載分)
 光覚寺金沢市山の上町5-1 
 雄徳山又は永国山と号し、浄土宗西山禅林寺派に属する。
 開山は、加賀藩初代藩主・前田利家の金沢城入城に際し、天正一三年(一五八五)、善等が越前府中より呼ばれ、城内の新丸の内に寺を建立したことが起こりである。
 二代藩主・前田利長の代に、塩屋町に移り、寛永一二年(一六三五)、当地に移転した。
 本尊阿弥陀如来立像は俊寛僧都の守本尊と伝えられる。
 寺中には受教院・心教院があり、延宝町絵図によれば、屋敷地は、幅約二七間、奥行二〇間あったと記されているが、天明期(一七八一~八九)に退転したといわれている。しかし、今も敷地に山腹を取り入れた静閑な佇まいを守っている。
 本堂の永国山の額は、後西院天皇の一一皇女宝鏡宮(本覚院宮) の御筆である。
 医師であり、明倫堂訓導の田中躬之・猛之、加賀藩に製茶を普及させた近藤一歩、鋳物業の武村弥吉等の墓がある。
 当寺は「飴買い幽霊」伝説の寺としても知られている。
■卯辰山山麓寺院群(「心の道」掲載分)
 善導寺金沢市山の上町13-51 
 妙音山と号し、浄土宗鎮西派に属する。
 寛永一六年(一六三九)、生蓮社良往露適上人を開山とし、開基は尾張町で薬種の商売をしていた高岡次郎兵衛(小西宗斎)で、父の法名を冠して、善導寺と号した。
 小西宗斎は能登富来海岸の海中より白髭明神の面を拾い上げ、加賀藩三代藩主・前田利常に献上したところ、喜んだ利常は褒美に寺地を与えたという。面は「泡吹の面」として、現在、尾山神社に奉納されている。
 明治一六年一二月一五日寺は焼失したが、幸いに本尊阿弥陀如来像だけ焼失を免れた。
 俳人・館屋如柳、陶工・松屋圧平の墓などがある。
■卯辰山山麓寺院群(「心の道」掲載分)
 東山蓮如堂金沢市子来町55-6 
 真宗大谷派金沢別院の飛地境内の仏堂である。
 卯辰山中腹にある子来町の、卯辰山の稜線がなだらかになって開ける山腹に建つ。
 この寺でなんと言っても目を引くのが、卯辰山頂上を見据えてそびえ立つ蓮如上人の立像。この蓮如上人像は、大正末期から七年間の年月をかけて建立されたもので、昭和七年(一九三二)に完成した。
 右手には杖、左手にはお数珠を持ち、笑みをたたえた蓮如上人像は、六一歳の折のご巡化のお姿を建立したものと伝えられている。
 その後、金沢・河北の門信徒により御堂が建てられ、毎年春の四月二五日には蓮如忌が、秋の一〇月には報恩講が執り行われている。
■卯辰山山麓寺院群(「心の道」掲載分)
 宝泉寺金沢市子来町57-1付近 
 摩利支天山と号し、真言宗に属する。
 本尊の摩利支天は、加賀藩初代藩主・前田利家の守本尊といわれている。
 慶長六年(一六〇一)、金沢城の鬼門に当たる向山の中腹に一〇〇〇〇坪の地を寄進され、同一一年(一六〇六)、二代藩主・前田利長の命により、加賀藩重臣であった冨田越後守重政が当地に堂宇を建立、本尊を安置したことが起こりといわれており、加賀藩諸士が多く参詣したという。
 境内からは東山の黒瓦を冠した美しい町並みや、遠くには、日本海も望むことができる。日本文学研究家であるドナルド・キーン氏も、「落陽の光景が金沢一の寺」と絶賛している。
 また、境内には、泉鏡花の小説の題材にもなった、複雑に枝分かれした五本松が立っている。
 通称、宝泉坊さん、五本松の名で知られている。
■卯辰山山麓寺院群(「心の道」掲載分)
 持名寺金沢市卯辰町ヌ-19 
 寳珠山と号し、真宗大谷派に属する。
 当寺は昔から合掌造りの真宗道場として、また蓮如上人由縁の旧蹟として知られている。
 文明七年(一四七五)五月、上人北国巡錫の折、二俣から卯辰山麓の八兵衛という者の家を足がかりとして教化された。そのため上人の「川越の名号」や書幅が寺宝として現在に至っている。
■卯辰山山麓寺院群(「心の道」掲載分)
 来教寺金沢市東山2-14-22 
 毘沙門山または卯辰山と号し、天台真盛宗に属する。
 開山は、寛永九年(一六三二)、西養寺七代日・ 真運上人の弟子・正林で、毘沙門天を祀ったことにはじまる。
 本堂内陣は、珍しく神社様式をとっており、左側の内陣は金毘羅大権現が中心となり、右側の内陣は阿弥陀仏が祀ってあり、馬頭観音不動明王毘沙門天が配されている。
 金沢出身の蓮田修吾郎氏寄贈の作品である多宝塔が安置されている。
 六地蔵菩薩が立ち、学業向上・開運出世・病気平癒を願って祈願に訪れる人も多い。人相おみくじも行っている。
■卯辰山山麓寺院群(「心の道」掲載分)
 永久寺金沢市東山2-14-23 
 金澤山と号し、真言宗に属する。
 本尊・千手千眼観世音菩薩(千手観音)は「玉泉院」(加賀藩二代藩主前田利長の正室)から、祈願成就のお礼として寄進された座像。---脇立・毘沙門天・不動明王も玉泉院寄進
 由来一五九三(元禄二)年、県内白山市鶴来に創建されていた「一王寺」が藩祖利家の命により金沢の金洗沢(現兼六園に隣接) に移された。---「金澤寺」と改称
 以来、歴代藩主の祈祷所(寺)となる。
 一六〇二(慶長七)年、利長公の命で浅野川の川上に移された。---寺地四十門四方
 一六二七(寛永四)年、三代藩主利常の命により、現在地に移る。---境内地三二〇〇㎡、門前地一七〇〇㎡
 現在の寺名は、住職(秀緑)が利常公への献上物の上書に「金澤・ 金澤寺」と記したところ、「永久寺」と称すべしと命ぜられたことによる。---玉泉院の幼名「永姫」に由来か?
 境内前庭に①三十三観音石像(三十四体)②花山院(第六十五代天皇)の石像---法王は、西国三十三観音霊場(二府五県)の中興の祖と伝説される③子安・延命地蔵を奉安。
 明治時代初頭に全焼(類焼)、再建ならず現在に至る。
■卯辰山山麓寺院群(「心の道」掲載分)
 玄門寺金沢市東山2-14-33 
 孤峯山と号し、浄土宗に属する。
 加賀藩士・内藤善斎が加賀藩三代藩主・前田利常より寺地を拝領し、甲斐の僧であった玄門直釣を開山として寛永一〇年(一六三三)に創建した。
 万治三年(一六六〇)、当地に移転した。
 この寺には、宝暦八年(一七五八)に順生が発願したという一丈六尺の大仏、寄木立像阿弥陀仏一体が安置されている。天井に狩野東洋による龍の絵が描かれている。
 また、寺宝には、僧心岩筆の法然上人像、一枚起請文などもあり、火除神として秋葉大権現が祀られている。
■卯辰山山麓寺院群(「心の道」掲載分)
 妙応寺金沢市東山2-14-59 
 金沢山と号し、日蓮宗に属する。
 開山は、天正一三年(一五八五)、日宗が枯木町に創建と伝えられる。
 慶長四年(一五九九)、金沢城外に総構堀を造るため、用地召上げとなり、その後、犀川中河原町などに、数度移転し、当地に移った。
 寺宝には、枯木橋土中より出現した日蓮大菩薩像、法華経八巻を納めた宝塔などがある。
 有名墓碑には、元禄の茶人・慧応院日感、儒臣・西坂成庵、工人・西坂辰之助一族の墓などがある。
■卯辰山山麓寺院群(「心の道」掲載分)
 龍国寺金沢市東山2-25-72 
 祥雲山と号し、曹洞宗に属する。
 慶安三年(一六五〇)、公儀町に建立したとされるが、万治二年(一六五九)、加賀藩の命により寺地を没収されて廃寺同然となった。その後、寛文一一年(一六七一)、宝円寺八世の虎白禅師が、前田利家出世開運の御守を封じ込めた稲荷大明神を祀る為に当地で重建された。
 大正九年には、加賀友禅の始祖・宮崎友禅斎の墓とされる墓碑が発見され、同一二年史蹟保存の為に友禅堂が建立された。昭和二八年の友禅斎生誕三〇〇年祭には、記念事業として付属茶室も完成し、毎年五月一七日を友禅忌として、遺徳を讃える盛大な祭典が挙行されている。
 寺宝には、伝友禅斎自作木像などがあり、木々が生い茂る寺の奥には、友禅斎の墓と句碑がある。
■卯辰山山麓寺院群(「心の道」掲載分)
 長田菅原神社拝殿金沢市長田1-5-3 
 寛永20年(1643)四代藩主前田光高が金沢城内に建立した金沢権現堂(東照権現)の護摩堂で明治11年(1878)この地に移築された。その構造は精巧を極め北陸にあっては数少ない江戸初期の日光廟式社殿である。
 西養寺鐘楼金沢市東山2丁目11番35号 
 鐘楼の形式は入母屋造(いりもやづくり)・桟瓦葺(さんがわらぶき)で、戸室石の高い基壇(きだん)の上に建つ。建立年代は嘉永4年(1851)の棟札があり、山上全之輔吉敏の大工名が書かれている。
 礎盤(そばん)上に粽(ちまき)付き円柱を内転(うちころび)に立て、平面は正方形間を形成する。組物は鐘楼には珍しい二手先(ふたてさき)で、中備(なかぞなえ)を一具とし、組物間には琵琶板(びわいた)に彫刻を飾る。組物の拳鼻(こぶしばな)・実肘木(さねひじき)には下半分の欠眉(かきまゆ)に平らな畦(あぜ)の部分があり、渦の一部に畦ができる金沢での細部様式の先駆をなすものである。
 この鐘楼は北陸禅宗様を代表する数少ない入母屋造、扇垂木(おおぎたるき)の鐘楼として貴重であり、金沢の寺院建築を代表する重要な遺構として貴重な建造物である。
 立像寺本堂金沢市寺町4丁目1番2号 
 本堂の形式は寄棟造(よせむねづくり)・桟瓦葺(さんがわらぶき)で向拝(こうはい)一間を付ける。建立年代は寛永15年(1637)の棟札がある。
 建物規模は正面桁行(けたゆき)八間(実長十一間)・梁行柱間(はりゆきはしらま)七間(実長八間半)で面取角柱(めんとりかくばしら)を用いる。向拝の細部絵様(さいぶえよう)は江戸時代前期の様式を示す。屋根は修理されているが、当時の小屋組を残す貴重な例で、元は柿葺(こけらぶき)であったと考えられる。寛永期の部材をよく残しており、その平面には古式な内陣(ないじん)構えが残る。
 この本堂は江戸時代初期の日蓮宗寺院本堂の特徴をよく残す、金沢の寺院建築を代表する稀少な遺構として貴重な建造物である。
 立像寺鐘楼金沢市寺町4丁目1番2号 
 立像寺は日蓮宗寺院である。
 鐘楼の形式は入母屋造(いりもやづくり)二階建・桟瓦葺(さんがわらぶき)。建立年代は様式的にみて鐘銘にある元禄元年頃(1688)と推測される。
 一階は礎盤(そばん)上に4本の粽(ちまき)付き柱を内転(うちころび)に立て、内部は格天井(ごうてんじょう)を張る。二階も円柱を立て一階と同じ構成とする。二階の各柱間に花頭窓(かとうまど)を開き、四周に縁を廻らして擬宝珠高欄(ぎぼしこうらん)を置く。軒は上、下層共に一軒半繁垂木(ひとのきはんしげたるき)で小舞裏(こまいうら)とし、妻は木連格子(きづれこうし)、破風拝み(はふおがみ)に蕪懸魚鰭(かぶらげぎょひれ)付きをうつ。
 この鐘楼は近世では珍しい一階を吹放し(ふきはなし)とする重層の建物で、一階柱に強い内転(うちころび)を付けた数少ない遺構であり、金沢の寺院建築の稀少な遺構として貴重な建造物である。
 旧涌波家住宅主屋金沢市東山1丁目5番14号 
 旧涌波家住宅主屋は、現地詳細調査の結果、金沢の古い町家の建築要素を示す多数の痕跡が明らかとなり、このことから江戸時代末期の建築と推定された。平成15年度にこの調査結果に基づき、明治初期の時代考証で復原修理工事が行われた。
 建物は桁行(けたゆき)四間、梁間(はりま)六間半の規模で、明治初期に二階建てとなったが、建築当初は平屋で、板葺き石置き屋根であったことが明らかとなっている。屋根を鋼板葺きに変更した以外は忠実に復原されている。
 建物正面の一階各柱間に蔀(しとみ)と呼ばれる横板戸が上下に2枚入り、玄関の蔀にはくぐり戸が付く。軒の先端部には風返し(かざがえし)と呼ばれる横板が付き、二階の隣地境界部分の両側に袖壁(そでかべ)、窓面には古格子(ふるごうし)が付く。一階の板庇に下がる板張りの装置はサガリと呼ばれる。
 当初からの変遷が明らかで元来の敷地に現存する歴史的建築は少なく、金沢における藩政期の町家建築の旧状を知ることのできる極めて貴重な遺構である。
 本泉寺山門金沢市二俣町子8番地 
 山門は一間一戸(いっけんいっこ)の二重門で入母屋造・桟瓦葺き。建立年代は寺の過去帳により文政6年(1823)である。
 様式は禅宗様でまとめられており、正面扉周りの豊富な装飾が特徴の1つである。門扉に花狭間菱格子(はなざまひしごうし)を設け、その中央に円形状の透彫彫刻(すかしぼりちょうこく)を施し、左右の羽目板には彫刻(左に鯉の滝昇り、右に獅子の子落とし)を備える。
 この山門は保存状態も良好で当初の形式をよく伝え、建立年代も明らかであり江戸後期の建築様式の指標ともなり得るものである。
 金沢では数少ない近世の二重門として稀少な遺構であり、貴重な建造物である。
 聖霊病院聖堂金沢市長町1丁目5番30号 
 木造平屋一部二階建て鋼板葺き。建築年代は昭和6年(1931)。設計はスイス人建造家マックス・ヒンデルである。
 外観は二層に分けられ、尖塔型の屋根上部に十字架を頂く鐘楼が建物全体のアクセントになっている。外壁は白く塗装された下見板張りで、ロマネスク様式を基調とした意匠でまとめられている。建物内部側廊のヴォールトとアーチを受ける列柱の柱頭には金を塗り、柱身は黒漆仕上げ、アーチは群青で彩られるなど、金沢の伝統工芸を生かした仕上げを各所で見ることができる。
 外国人建築家の設計による昭和初期の建築でその形状をよく遺す貴重な遺構であり、建築内部において西洋と日本の感性が見事に調和した特徴的建物である。
 高岸寺本堂・鐘楼金沢市寺町5丁目2番25号 
 高岸寺は日蓮宗寺院である。
 本堂は、切妻造り(きりづまづくり)桟瓦葺き(さんがわらぶき)、文久元年(1861)の建築。鐘楼は、入母屋造り(いりもやづくり)桟瓦葺き、寛政9年(1797)頃の建築である。
 本堂は、正面梁行柱間四間(実長十一間)・桁行五間半(実長八間)の規模で、正面中央に向唐破風造(むかいからはふづくり)の式台玄関を付ける。本堂正面は妻面を大きく見せ、構造部材によって装飾的である。日蓮宗寺院方丈型の大規模本堂として発展した到達点を示す遺構として貴重であり、その外観・意匠は金沢特有のもので完成度が高い。
 鐘楼は、向かって右手に連なる祀堂の二階に建ち、各面に花頭窓(かとうまど)を開き、四周に縁を廻らして擬宝珠高欄を据えている。二階建てのこのような鐘楼形式は、市内に類例がなく特徴的である。
 専長寺本堂・松帆?(しょうはんしゃ)金沢市金石西4丁目19番56号 
 専長寺は真宗大谷派の寺院である。
 本堂は正面桁行(けたゆき)柱間九間・梁行(はりゆき)柱間九間、寄棟造・平入り、正面中央に向拝(こうはい)を付ける。建立年代は棟札により寛政9年(1797)である。
 本堂平面は、正面七間、奥行七間(実長七間半)の身舎(もや)を中心に、三方に入側縁、さらに落縁(おちえん)を廻らせ建具を入れて屋内に取り込み、側面と背面に廊下及び附属室を設けた構成である。
 18世紀末の当地において、浄土真宗一般末寺本堂の本堂化が高い技術によって進行する過程にあったことを示しており、建立年代、建設過程、施工体制も判明しており、金沢における江戸時代後期の寺院建築の遺構として重要な価値が認められる。
 松帆?は、旧御塩蔵町の銭屋五兵衛隠居所にあったものを移築したと伝えられる茶室で、天保7年(1836)頃の建築と推定される。
 専長寺山門金沢市金石西4丁目19番56号 
 山門は、一間一戸控柱付き棟門の形式で、屋根は側面に唐破風(からはふ)をもつ平唐門である。屋根は桟瓦葺き(さんがわらぶき)で赤褐色の瓦を葺くが、痕跡から当初はこけら葺きであったと推定される。建立年代は、本堂と前後する江戸時代後期(18世紀末)と推定される。
 軸部は、棟通りに本柱(円柱)を2本立て、本柱間に大虹梁を渡し、両端に木鼻をつくる。桟唐戸正面上部には牡丹の彫刻を張る。冠木(かぶき)は断面が円形で、両端木口に入八双金具を被せる。軒廻りは一軒半繁垂木(ひとのきはんしげたるき)の輪垂木で、茨を付ける。
 市内に類例の少ない平唐門であり、独自の構造形式を高い完成度でまとめ上げた優作である。
 如来寺本堂金沢市小立野5丁目1番15号 
 如来寺は浄土宗寺院である。
 本堂の形式は入母屋造(いりもやづくり)・平入りで正面に向唐破風造(むかいからはふづくり)の向拝を付ける。建立年代は文化10年(1813)と推定される。
 建物規模は桁行(けたゆき)柱間九間・梁行(はりゆき)柱間九間。側廻りの外部側は舟肘木(ふなひじき)を用いて桁を受けるが張り付けとし、2本の飛貫(ひぬき)と内法貫(うちのりぬき)・腰貫(こしぬき)を通し、腰には胴縁(どうぶち)を入れ、内法長押(なげし)・腰長押・地長押で固める。柱間装置は花頭窓と窓を各間交互に配している。
 本堂平面は六間取りを基本とし、正面と側面に柱間一間の広縁を設け取り込む。内部空間の立ちが高く、江戸時代後期の浄土宗寺院本堂の発達した典型的な姿を示す。
 大規模な修理を受けておらず、再建当初の姿をよくとどめており、金沢における江戸時代後期の寺院建築の遺構として重要な建造物である。
 旧園邸金沢市西町三番丁17番7号 
 大正7年建築の近代和風住宅で、外観は長屋門を思わせる門と塀が端正な趣を醸し出し、母屋の張出し部に連なる意匠は、その奥の本屋の切妻屋根と調和しつつ、さらに土蔵屋根と一体となって、極めて重厚なたたずまいを見せている。
 建築主の本郷氏は茶道に通じ、各部屋は茶事を行えるように露地ともども茶道表千家家元の指導を受けて作られ、大正から昭和のはじめにかけては、月例の釜がかけられていたという。
 その後、この建物は園酉四郎氏が取得。氏の亡き後は時子夫人が住まいとしていたが、夫人の死去後その遺志により平成4年10月金沢市に寄贈された。
 旧かみや主屋・土蔵金沢市東山1丁目26番17号 
 「旧かみや」は、明治6年(1873)頃の建築とされる茶屋建築です。
 主屋は瓦葺き二階建て一部三階建てで、外観は一階に出格子、二階は階高が高く雨戸と戸袋を備えるなど、茶屋建築の特徴を良く表しています。内部は二階正面や中庭に面して、客をもてなす座敷や離れを配置しています。玄関の舟板や店の間の下地窓など数寄屋風の意匠が各所に見られ、襖の引手や長押の釘隠の意匠も変化に富んでいます。
 土蔵は二階建て、瓦葺きの置き屋根形式で、外観は基部を戸室石の切石積み、腰を薄青色の凝灰岩経の石張り、上部を白漆喰壁とし、窓には雨風除けの霧除を付けるなど、金沢で見られる土蔵造りの形式を踏襲しています。
 「旧かみや」は、明治初期の茶屋建築の外観と間取りの特徴を良く残す貴重な建物であり、また、建物を店舗活用する際、内部の建具などを土蔵で保管し旧状への復原を可能とするなど、保存と活用を両立する事例としても評価されています。
 善福寺本堂 附絵図二枚金沢市橋場町8番6号 
 善福寺は真宗大谷派の寺院である。
 善福寺本堂は、宝暦9年(1759)の大火後、江戸時代後期に、本堂建築としては珍しい土蔵造りによって再建された。
 土蔵造りの土壁の厚さは、ほぼ一尺。漆喰塗で軒先まで塗り籠め、開口部には土塗の引戸や土扉を設け、耐火性を高めている。
 全国的にも数少ない土蔵造りの近世本堂建築の遺構であるとともに、宝暦の大火後における金沢城下の復興を物語る貴重な建物である。
 旧つちや金沢市主計町2番3号 
 旧つちやは、大正2年(1913)頃に建てられた茶屋建築である。
 一階正面の出格子には、金沢で「木虫籠(キムスコ・キムシコ)」と呼ばれる目の細かな木格子が残り、ガラス建具を組み込んだ巧みな細工が見られる。また、茶の間に残る三味線棚が、往時のお茶屋の雰囲気を今に伝える。
 旧つちやは、主計町の茶屋建築として、典型的な間取りをよく残し、その意匠的価値も高く評価される貴重な建物である。
 松山寺本堂 附棟札一枚金沢市東兼六町5番6号 
 松山寺は曹洞宗寺院である。
 本堂は、宝暦の大火で焼失したため、天明8年(1788)に再建された。再建の際、臨済宗本堂の古材を買い取り、曹洞宗の形式に造り替えている。
 平面は八間取り(やつまどり)とし、大間(だいま)を中心とした前面三室境を、三間半の柱間に大虹梁(だいこうりょう)を架け渡して開放とした進歩的な空間が特徴的である。
 金沢における曹洞宗本堂の発展過程を示す遺構として貴重である。
 松山寺山門 附棟札二枚金沢市東兼六町5番6号 
 山門は、切妻造(きりづまづくり)、桟瓦葺き(さんがわらぶき)の一間一戸薬医門(いっけんいっこやくいもん)である。棟札には、文政5年(1822)、「再建惣門(そうもん)」とあり、建立年代が判明する貴重な遺構で、加賀八家横山家菩提寺の表構えに相応しい存在感を示す。
 装飾性は抑えるものの、冠木(かぶき)先端の入八双(いりはっそう)状の木板に施された卍崩しの地紋彫りが意匠性を高め、木太く重厚な造りである。
 小立野寺院群の代表的な門として、地区の景観に寄与する。
 小坂神社本殿金沢市山の上町42番1号 
 小坂神社は、金沢五社のひとつとして広く知られる古社である。
 本殿の建立年代は、貞享(じょうきょう)5年(1688)と推測され、市内では数少ない17世紀後期に遡る神社建築である。
 本殿は、奇数間が一般的な神社建築において、四間社流造(よんけんしゃながれづくり)とした珍しい形式であり、内陣(ないじん)が四室に分けられ、本社である奈良県の春日大社と同じ四祭神が各室に祀られている。また、向拝(ごはい)にみられる細部意匠は、市内寺社建築の年代判定の指標となるもので貴重である。
 佐奇神社拝殿(旧天徳院前田綱紀御霊堂) 附棟札一枚金沢市佐奇森町ホ113番 
 佐奇神社拝殿は、かつて天徳院にあった五代藩主前田綱紀(つなのり)の御霊堂(ごれいどう)を、明治9年(1867)に移築したものである。
 棟札から、寛政元年(1789)に「加賀藩御大工頭 清水次左衛門藤原峯光」によって、建立されたことが判明する。峯光は、国重要文化財・気多神神社本殿(羽咋市)などを手掛けた名工として知られる。
 近世の加賀藩主御霊堂として、市内に唯一残るものである。
 金沢城惣構跡(西外惣構)金沢市柿木畠3?1 
 「惣構」とは、堀や土居で城下町を囲い込んだ防御施設です。金沢城には二重の惣構がつくられ、内惣構は二代藩主前田利長の命により慶長4年(1599年)につくられたといわれ、外惣構は三代藩主利常が慶長15年(1610年)に篠原一孝に命じてつくらせたと伝わっています。
 堀の内側には土居(土盛)が築かれ、土居には竹や木が植えられ防御力を一層高めていました。堀の幅は築造当時には10m以上あったことが判明していますが、藩政中期頃から徐々に狭められ、現在は水路となっています。                
 西外惣構の長さは約3.2Kmで、ここより100m南の宮腰往還から城下への出入り口にあたる場所に、周囲を土居で囲み防御性を高めた升形がありました。
 金沢城惣構跡(西内惣構)金沢市尾山神社前 
 尾山神社前の水路は、慶長4年(1599)に二代藩主前田利長が、金沢城下の防御のために高山右近に造らせたとされる西内惣構堀の一部にあたります。
 寛永9年(1632)に三代藩主前田利常が、犀川上流上辰巳地内から金沢城まで辰巳用水を引かせ、その落水で西内惣構堀にも水が満たされました。
 明治6年(1873)に尾山神社が初代藩主前田利家を祀るために創建され、同8年までに前面の惣構堀は大幅に埋められて水路となりました。その後、昭和20年代に暗渠化され今日に至りました。
 金沢市では、この水路が明治以降、辰巳用水の管理に携わる人々(現:辰巳用水土地改良区)によって支えられ、その潤いが市民に親しまれてきた敬意をふまえ、平成9年に用水保全条例に基づく保全用水(辰巳用水)に指定しています。
 金沢城惣構跡(東外惣構)金沢市小将町6-14 材二親和会童志園 
 「惣構」とは、堀や土居で城下町を囲い込んだ防御施設です。金沢城下町には二重の惣構があり、内惣構は二代藩主前田利長の命により慶長4年(1599 年)に、外惣構は三代藩主利常が慶長15 年(1610 年)に篠原一孝に命じてつくらせたと伝わっています。
 堀の内側には土居(土盛)が築かれ、竹や木を植えて防御力を一層高めていました。堀の幅は築造当時には10m以上あったことが判明していますが、藩政中期頃から徐々に狭められ、現在は水路となって痕跡をとどめています。
 東外惣構の長さは、兼六園から始まり小将町、兼六元町へと続き、橋場町を経て浅野川までの約1.6kmです。
 立野家(たてのけ)住宅主屋・土蔵金沢市大工町37番地 
 立野家は代々畳店を営んでおり、明治初期にこの建物を所有している。建築年代は19世紀初期と推定される。
 表構えは軒高が低く、二階両脇に「袖卯建(そでうたつ)」と呼ばれる袖壁を備え、窓には古格子が付く。一階には庇(ひさし)下にサガリを設け、開口部には蔀戸(しとみど)が入る。また、「簾虫籠(すむしこ)」と呼ばれるこの地方特有の格子も復原されている。
 屋根は瓦葺きであるが、小屋裏には石置き屋根当時の小屋組の遺構も残されている。
 この建物は江戸時代後期の町家の古い意匠と構造を示す稀少な遺構として極めて貴重な建造物である。
 金沢城惣構跡(東内惣構)金沢市兼六元町3-18 味噌蔵消防署 
 「惣構」とは、堀や土居で城下町を囲い込んだ防御施設です。金沢城下町には二重の惣構があり、内惣構は二代藩主前田利長の命により慶長4 年(1599 年)に、外惣構は三代藩主利常が慶長15 年(1610 年)に篠原一孝に命じてつくらせたと伝わっています。
 堀の内側には土居(土盛)が築かれ、土居には竹や木が植えられ防御力を一層高めていました。堀の幅は建築当時には10m以上あったことが判明していますが、藩政中期頃から徐々に狭められ、現在は水路となっています。
 東内惣構の長さは、旧小尻谷町から始まり橋場町を経て浅野川までの約1.3kmです。
 加賀八家 本多家屋敷跡金沢市本多町3-2(本多公園内) 
 本多家は、藩政時代政重(まさしげ)から政以(まさざね)の12代を数え、禄高は代々50,000石を世襲した。初代政重は、徳川家康の信頼が厚かった本多正信の次男である。徳川家を去って諸国を渡り歩き、慶長7年(1602)、前田利長(としなが)に仕えたが、まもなく上杉家の重臣直江兼続(なおえかねつぐ)の養子となった。慶長16年(1611)、金沢に来て再び前田家に仕えて30,000石を禄し、同19年には50,000石となり、以後前田家と徳川家の間柄の円滑化に努めた。邸は、慶長17年からこの地にあって、明治を迎えたもので、敷地は10,000坪(約33,000㎡)を越えていた。本多家の家禄50,000石は加賀藩士の中で最も高く、また全国の大名の家臣の中でも最高禄であった。
 加賀八家 長家屋敷跡金沢市玉川町(玉川公園内) 
 長家は、藩政時代は連龍(つらたつ)から成連(なりつら)までの11代を数え、禄高は代々33,000石を世襲した。邸は、当初本拠地である能登田鶴浜と金沢城内の2カ所にあったが、金沢邸は慶長17年(1612)、長町の現在地に移転し明治に至った。金沢の邸地は約10,000坪(約33,000㎡)。長家は、鎌倉時代初期に能登国鳳至(ふげし)郡大屋荘(現輪島市西部・穴水町付近)に地頭(じとう)として入部した長谷部信連(はせべのぶつら)の子孫である。以後、能登国守護畠山氏の重臣となっていたが、七尾城の攻防で一族の主力が謀殺され、長連龍のみが生き残り、織田勢の先鋒となって能登に入った。その功で信長から鹿島半郡(はんごおり)が与えられ、また同時に能登に入った前田利家の与力大名としてその指揮下に入ったが、その後前田家に臣従するようになった。明治2年(1869)、長家の邸は、金沢藩庁として利用された。
 加賀八家 横山家屋敷跡金沢市横山町17-15先 横山町広見(市道敷内) 
 横山家は、藩政時代長隆(ながたか)から隆平(たかひら)の11代を数え、禄高は多い時は32,500石であったが、ほとんどは30,000石を世襲した。邸は、当初金沢城内にあったが、その後広坂高の本多安房守邸の向かいに移り、さらに元禄(1688~1704)の終りころ、この地に移り、当時約5,500坪(約18,100㎡)を居宅地としていた。付近一帯は、一族や家臣の屋敷が立ち並び、あたかも横山家の小城下町の様相を呈していた。初代長隆は、美濃(岐阜県)の人で、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦で戦没した。2代長知(ながちか)は、前田利家に反家康密謀の疑いがあったとき弁明し、その子康玄(やすはる)も3代藩主利常が幕府から謀反の嫌疑をかけられたとき弁解し、いずれも主家の危急存亡のときを救い、大きな功績があった。
 加賀八家 前田家(直之系)屋敷跡金沢市高岡町9-20(エーデルハイム第2高岡町) 
 前田家は直之(なおゆき)から直信(なおのぶ)までの9代を数え、禄は初め10,050石、3代直堅(なおかた)以降は11,000石を世襲した。邸は、寛永7年(1630)には既に当地にあったことが知られ、延宝期(1673~81)の城下絵図によると、その邸地は約3,000坪(約9,900㎡)である。当家の家祖となる直之の父利政は、能登七尾城にあって能登を領していたが、関が原の役に出兵を拒み領地を召し上げられ、京都で没している。利政は藩祖利家の次男であり、当家は藩主前田家の文脈にあたる。初代直之は3歳の時より祖母の芳春院(前田利家夫人)に養育され、元和元年(1615)、12歳で3代藩主利常に仕え、以降代々要職を歴任し明治に至った。
 加賀八家 前田家(長種系)屋敷跡金沢市大手町15-40(NTT金沢第2分局内) 
 前田家は長種(ながたね)より孝敬(たかゆき)までの11代を数え、禄は初代より5代までは20,000石から21,000石、6代孝資(たかより)以降は18,500石から18,000石を世襲した。初代長種より4代孝貞(たかさだ)まで小松城代として城内にあり、寬永16年(1639)に3代藩主利常(としつね)が小松に隠居在城することになったのに伴い、金沢に戻り、邸はこれ以降のものである。邸地は大手前通りに面し、約7,600坪(約25,100㎡)あり、貞享期(1684~88)まではこの5分の3程度であった。当家は藩主前田家と同じく尾張国(愛知県)の地侍で代々前田姓を称するが、藩主前田家とは別系である。長種は天正12年(1584)、前田利家に10,000石をもって仕え、翌年利家の長女幸を妻とし、主家と縁戚となり、以降2代藩主利長の後見役、3代藩主利常の傳役(もりやく)を勤めた。
 加賀八家 奥村家(宗家)屋敷跡金沢市飛梅町1-10(北陸学院高校ウィン館門前) 
 奥村家は尾張(愛知県)荒子城以来の前田家の旧臣で、藩政時代は永福(ながとみ)から栄滋(てるしげ)まで14代を数え、禄高は永福の11,950石から数回加増され、中ごろ以降17,000石を世襲した。永福は、加賀能登越中の境の要衝末森(すえもり)城主として天正12年(1584)、富山の佐々成政(さっさなりまさ)の侵攻を撃破して前田家の危機を防いだ。邸は、元和6年(1620)ころ、今の兼六園(けんろくえん)の地に賜り、元禄9年(1696)、石引町(いしびきちょう)のこの地に移されて明治に至った。邸地は10,000坪(約33,000㎡)を越え、明治以降ここに陸軍病院が置かれ、戦後国立病院となった。道路に沿って残る約300mの土塀と戸室石(とむろいし)の石組みに、往時の広壮な邸の一端がしのばれる。
 加賀八家 奥村家(支家)屋敷跡金沢市小将町1-15(小将町中学校門前) 
 奥村家は、尾張(愛知県)荒子城以来の前田家旧臣であった奥村永福(ながとみ)の2男易英(やすひで)を家祖とし、則友(のりとも)までの15代を数え、禄高の多い時は17,450石であったが、ほとんどは12,000石を世襲した。邸は、当初金沢城内にあったが、城郭内の整備に伴い小将町の現在地に移転し明治を迎えた。邸地は約2,400坪(約8,000㎡)。初代易英は、天正12年(1584)、父永福とともに加賀能登越中の境の要衝末森城(すえもりじょう)を守り、その後前田利長(としなが)に仕えて、各地を転戦し、次いで大聖寺(だいしょうじ)の戦いや大坂冬の陣の戦功などにより知行を増し、さらに父永福の没後その遺知や前後の賞賜を加えて、禄高14,450石となった。
 加賀八家 村井家屋敷跡金沢市長町1-10(中央小学校 塀の壁面) 
 村井家は、藩政時代は長頼(ながより)から長在(ながあきら)までの11代を数え、禄高の多い時は17,245石であったが、ほとんどは16,569石を世襲した。邸は、当初金沢城内にあったが、城郭の拡張に伴い長町の現在地に移転し明治を迎えた。邸地は約5,000坪(約16,500㎡)。初代長頼は、尾張(愛知県)荒子村(あらこむら)の出身で、藩祖前田利家(まえだとしいえ)の侍臣となり、各地を歴戦し、戦功をたてたために、利家の通称又左衛門の一字を与えられて又兵衛と名乗ったほどの功臣であった。慶長5年(1600)、長頼は、2代藩主利長に対する徳川家康の嫌疑を解くため、人質となって江戸へ下った芳春院(利家夫人)に随従し、同10年その地で没した。
 全性寺(ぜんしょうじ)山門金沢市東山2丁目18番10号 
 全性寺は日蓮宗寺院である。
 山門の構造は屋根が入母屋造り(いりもやづくり)の楼門(ろうもん)であり、建立年代は18世紀後半と推定される。
 楼門は二階建ての門であり、二階には「腰組(こしぐみ)」と呼ばれる回り(まわり)縁(えん)で支持する高欄(こうらん)が付いている。また、この門正面の柱間隔が3つあり、扉が1つ設けられていることから、三間一戸(さんけんいっこ)形式の楼門と呼ばれる。
 外壁及び軒裏等にはベンガラが塗られており、通常「赤門」と称され、広く市民に親しまれている。
 この山門は金沢では類例をみない三間一戸楼門の形式であり、金沢の江戸時代の社寺建築を代表する稀少な遺構として極めて貴重な建造物である。
 妙国寺(みょうこくじ)山門金沢市東山2丁目18番9号 
 妙国寺は日蓮宗寺院である。
 山門の構造は屋根が切妻造り(きりづまづくり)の薬医門(やくいもん)であり、建立年代は安永9年(1780)である。
 薬医門は親柱の位置が屋根の棟の通りより少し前に立ち、控え柱が後ろの方にある独持な架構(かこう)の門である。
 この門には脇塀(わきべい)の取り付く化粧板(けしょういた)が残っており、従前、脇塀が厚さ約2センチ程の厚板葺き(あついたぶき)であった跡も確認できる。
 この山門は卯辰山山麓寺院群の中では建立年代の明確な最も古い門であり、金沢の江戸時代の社寺建築を代表する稀少な遺構として極めて貴重な建造物である。
 本光寺(ほんこうじ)山門金沢市東山2丁目19番43号 
 本光寺は法華宗寺院である。
 山門の構造は屋根が切妻造り(きりづまづくり)の薬医門(やくいもん)であり、建立年代は文化元年(1804)である。
 薬医門は親柱の位置が屋根の棟の通りより少し前に立ち、控え柱が後ろの方にある独持な架構(かこう)の門である。
 この門は卯辰山山麓寺院群の中で随一規模の大きい門であり、梁(はり)等の細部様式(さいぶようしき)は金沢における文化文政期の様式をよく伝えている。
 金沢の江戸時代の社寺建築を代表する稀少な遺構として極めて貴重な建造物である。
 蓮昌寺(れんじょうじ)山門金沢市東山2丁目11番23号 
 蓮昌寺は日蓮宗寺院である。
 山門の構造は切妻造り(きりづまづくり)の高麗門(こうらいもん)であり、建立年代は19世紀前期である。
 高麗門は2本の親柱の上に屋根を支え、親柱後方にはそれぞれ控え(ひかえ)柱が付き、その上に小屋根を設けた形式の門である。当門は高台に位置し、海側からの強い風を受けることから控え柱をもつ高麗門の形式がとられたと考えられる。
 この山門は市内でも数少なく、金沢の江戸時代の社寺建築を代表する稀少な遺構として貴重な建造物である。
 妙泰寺(みょうたいじ)山門金沢市東山2丁目17番15号 
 妙泰寺は日蓮宗寺院である。
 山門の構造は切妻造り(きりづまづくり)の高麗門(こうらいもん)であり、建立年代は19世紀初頭である。
 高麗門は2本の親柱の上に屋根を支え、親柱後方にはそれぞれ控え(ひかえ)柱が付き、その上に小屋根を設けた形式の門である。
 この門の様式は城や大名屋敷に設けられることが多く、寺院の表門としては珍しい。
 この山門は市内でも数少なく、金沢の江戸時代の社寺建築を代表する稀少な遺構として貴重な建造物である。
 西養寺本堂金沢市東山2丁目11番35号 
 西養寺は天台宗寺院である。
 本堂の形式は入母屋造(いりもやづくり)・桟瓦葺(さんがわらぶき)で正面に向唐破風造(むかいからはふづくり)の玄関(式台)を付ける。建立年代は天明3年(1783)の棟札がある。
 建物規模は正面桁行(けたゆき)八間(実長九間)・梁行柱間(はりゆきはしらま)七間(実長九間)。入母屋造としては大きい妻面は装飾的で、長短5本の束(つか)を立て、中央束のみを長くし、その中程両側に虹梁(こうりょう)を入れ、外側には海老虹梁(えびこうりょう)を架ける。痕跡から当初切妻造(きりづまづくり)であったことが確認され、現在に至る屋根形態の発展経緯が明らかである。
 この本堂の入母屋造に向唐破風造の玄関(式台)を付けた意匠は全国的にも数が少なく、金沢の寺院建築の特性を示す建立年代の判明する稀少な遺構として貴重な建造物である。

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