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 かなざわ百万石ねっとかなざわ・あれこれ金沢市のオープンデータ文化財保護課パンフレット掲載文

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 ■ 文化財保護課パンフレット掲載文
 金沢市提供のオープンデータ〔文化財保護課パンフレット掲載文〕を利用しています。
文化財保護課発行のパンフレットに掲載された文化財と、パンフレットの掲載文のデータです。

[茶色の旗] 中心市街地石造物マップ
[青色の旗] 卯辰山山麓地区石造物マップ
[水色の旗] 寺町台石造物マップ
[緑色の旗] 加越国境城跡群及び道
[黒色の旗] 富樫氏と一向一揆史跡探訪マップ
[桃色の旗] 古代の里探訪マップ
[赤色の旗] 辰巳用水
[灰色の旗] 加賀藩主前田家墓所
datafile〔shisetsu_bunkazai_pamphlet.csv〕 update〔平成31年1月16日〕

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No. 名称住所電話 
 地蔵橋子安地蔵尊〒920-0932金沢市小将町1-15 
 浄住寺は鎌倉時代に小坂荘山崎村に創建され、藩政期に旧高儀町( 現 長土塀2・3丁目)に移転したが、門前にあった地蔵尊のみが現在の小将町に残る。何事でも祈願すれば成就し、庶民の信仰を集めたと伝わる。
■パンフレット「中心市街地石造物マップ」掲載 金沢城東側エリア
 御影堂(右)と御髪堂(左)(宝円寺)〒920-0934金沢市宝町6-14 
 豊臣秀吉亡き後、藩祖利家は慶長4年、伏見城で徳川家康と対面する際に自画像と頭髪を埋めたと伝えられる。御堂内には方柱状の碑(明治9年再建)が納められている。御堂の間に宝篋印塔がある。
■パンフレット「中心市街地石造物マップ」掲載 金沢城東側エリア
 俵屋宗達の墓(宝円寺)〒920-0934金沢市宝町6-14 
 生没年不詳、江戸前期の画家。宗達光琳派の祖。大正2年、墓地内に五輪塔が発見され、過去帳から画家田原屋の条に合致し、判明。宗達の弟か弟子ともいわれる宗雪は三代藩主利常の御用絵師として活躍している。
■パンフレット「中心市街地石造物マップ」掲載 金沢城東側エリア
 十二代藩主子墓の地蔵群(宝円寺)〒920-0934金沢市宝町6-14 
 藩主前田家宝円寺墓所には藩主側室墓4基と夭折した子女墓4基がある。十二代藩主斉広の子他亀次郎(9歳没)の墳墓正面に地蔵尊8体がある。いずれも胸前で合掌した立像で、内2体には光背がある。
■パンフレット「中心市街地石造物マップ」掲載 金沢城東側エリア
 三十三観音像(宝円寺)〒920-0934金沢市宝町6-14 
 十二代藩主室真龍院に仕えた松之御殿等の女性達が三十三観音石仏をもと当寺にあった三洞庵に奉納したもの。当時庵主であった微笑と真龍院は親交が深く、堂左横に建つ供養碑に奉納者名を刻む。
■パンフレット「中心市街地石造物マップ」掲載 金沢城東側エリア
 福徳地蔵尊(宝円寺)〒920-0934金沢市宝町6-14 
 藩士富永家の屋敷(香林坊の一画)にあったが、昭和63年当地に移転。富永家が供養と福徳祈願のため設置したものであるが、建立年代は不詳。富永家は禄2,000石を拝領、改作奉行等を歴任。
■パンフレット「中心市街地石造物マップ」掲載 金沢城東側エリア
 寺西秀澄の墓(瑞雲寺)〒920-0934金沢市宝町6-13 
 寺西家は尾張国の出身。初代当主秀澄は佐久間盛政に仕え、天正10年(1582)に藩祖利家に禄5,000石で仕えた。慶長年間頃、能美郡千代の砦を守護し、禄2,000石を加増され、大坂両役にも出陣。その後隠居し、宗乾と号す。
■パンフレット「中心市街地石造物マップ」掲載 金沢城東側エリア
 身の丈地蔵尊(善行寺)〒920-0925金沢市天神町1-3-5 
 境内に安置されているが旧位置は100m離れた火葬場に所在した。背面に刻む安永4年の紀年銘は風化している。「身の丈」の由来は大きな人が立てば大きく、小さな人が立てば小さくなるからという説や等身大説など様々。
■パンフレット「中心市街地石造物マップ」掲載 金沢城東側エリア
 手水鉢(椿原天満宮)〒920-0925金沢市天神町1-1-13 
 椿原神社にある最古の石造物。手水鉢正面に「明和五年奉納 四月吉日」と刻む。右手の龍頭から一筋の水が中央にある受鉢に流れ落ちる構造は、精巧な作りである。
■パンフレット「中心市街地石造物マップ」掲載 金沢城東側エリア
 俳句扁額(椿原天満宮)〒920-0925金沢市天神町1-1-13 
 菅原道真生誕950年の嘉永5年4月に奉納された俳書の石製の扁額。手水鉢建屋内の上部に掛けてあり、45句と詠手の雅号が刻まれる。右側に梅樹が陽刻され、巻物風に設えてあるのが珍しい。奉納年月と落款の彫込みは朱で彩色。
■パンフレット「中心市街地石造物マップ」掲載 金沢城東側エリア
 がっぱの神様(椿原天満宮)〒920-0925金沢市天神町1-1-13 
 頭にできた湿疹を当地で「がっぱ」という。湿疹ができた子の親はお参りし、治るとお礼にお供え物をした。下位部は松竹梅紋を刻む扉がある。中位部は火袋で右面に月輪、左面に日窓を開ける。露盤前面の梅鉢紋は陽刻、他の三面は陰刻。
■パンフレット「中心市街地石造物マップ」掲載 金沢城東側エリア
 「不許葷酒入坐門」石柱(松山寺)〒920-0933金沢市東兼六町5-6 
 山門(薬医門)前の階段横にあり「不許葷酒入坐門」(ニラや酒を飲食した者は門の中に入ることを許さない)と大きく刻まれ、背面には建立年・建立者(松山寺十一世)・石工名(六右衛門利成、越前州敦賀)が刻まれている。
■パンフレット「中心市街地石造物マップ」掲載 金沢城東側エリア
 狛犬(椿原天満宮)〒920-0925金沢市天神町1-1-13 
 安政6年に奉納。作者は石工松田七左衛門。狛犬は獅子に似た想像上の獣、魔除けのために社殿の前等に一対で据え置かれた。藩政期の逆立ち狛犬は珍しく、作者の遊び心が伝わる。この形態は明治期以降よく造られた。
■パンフレット「中心市街地石造物マップ」掲載 金沢城東側エリア
 岡田隼人の墓(経王寺)〒920-0942金沢市小立野5-9-2 
 岡田隼人は織田信雄、豊臣秀吉を経て、二代藩主利長に仕え、禄4,000石を賜る。その後三代藩主利常の生母「寿福院」付となる。軸部には石像が2体安置され、外面には蓮花紋が陽刻される。
■パンフレット「中心市街地石造物マップ」掲載 金沢城東側エリア
 真如院の墓(経王寺)〒920-0942金沢市小立野5-9-2 
 真如院は六代藩主吉徳の寵愛を受けた側室であったが、吉徳没後八代藩主重熙の暗殺計画の嫌疑をかけられ捕縛された。世にいう「加賀騒動」の渦中の一人で、金谷御殿に幽閉された。享年43。
■パンフレット「中心市街地石造物マップ」掲載 金沢城東側エリア
 千秋順之助銘の燭台(経王寺)〒920-0942金沢市小立野5-9-2 
 勤王派の千秋順之助は、分家喜兵衛系7代宗助範為の次男。後の十四代藩主慶寧の侍読となるも、「禁門の変」(元治元年・1864)で捕えられ切腹した。千秋家累世之墓の前にある2基の燭台は順之助が生前に奉献したもの。
■パンフレット「中心市街地石造物マップ」掲載 金沢城東側エリア
 「禁絶葷酒入山」石柱(如来寺)〒920-0942金沢市小立野5-1 
 山門前に建つ。正面に「禁絶葷酒入山門」と刻む。匂いの強い食物( ニラやニンニクなど)と酒を飲食したものの山門の出入りを許さない、という意味。背面に「寛延元年辰歳初冬 龍寶山如来寺十三世仰誉代」と刻む。
■パンフレット「中心市街地石造物マップ」掲載 金沢城東側エリア
 久徳尚則の墓(如来寺)〒920-0942金沢市小立野5-1 
 久徳尚則(禄100石)は、十四代藩主慶寧の近習で尊王攘夷論を説く。「禁門の変」(元治元年・1864)で藩の尊皇攘夷派が弾圧された時、尚則は能登島に流刑となる。妹の筆は慶寧の側室となり前田家十五代当主利嗣の生母となる。
■パンフレット「中心市街地石造物マップ」掲載 金沢城東側エリア
 上坂平兵衛の墓(如来寺)〒920-0942金沢市小立野5-1 
 上坂家は越前国の浪人、村田両左衞門に始まる。享保年間に加賀藩に仕え、禄3,000石となり、上坂平兵衛と称す。平兵衛の妹は六代藩主吉徳の側室(七代藩主宗辰生母)となる。歴代当主と室等の墓塔が24基並び立つ。
■パンフレット「中心市街地石造物マップ」掲載 金沢城東側エリア
 四代藩主墓燈籠群(天徳院)〒920-0942金沢市小立野4-4-4 
 境内に17基ある燈籠は、四代藩主光高墓の参道に設置されていたものの一部である。昭和27年藩主前田家墓地が野田山に改葬されたとき、29基の燈籠が移設されたが、他に尾山神社へも2基移設されている。
■パンフレット「中心市街地石造物マップ」掲載 金沢城東側エリア
 出世地蔵尊(天徳院)〒920-0942金沢市小立野4-4-4 
 六代藩主吉徳の側室真如院の子が天徳院にお預け後、当院に葬られ、墓地内に地蔵尊を建立し菩提を弔った。昭和27年、野田山に改葬された時、地蔵尊は当院表側に移設されたことから、「出世地蔵」と名付けられた。
■パンフレット「中心市街地石造物マップ」掲載 金沢城東側エリア
 下馬地蔵尊〒920-0935金沢市石引3丁目 
 正面中央に地蔵立像を半肉彫りする。文禄元年頃に始まる戸室山からの石曳きの安全を祈願して建立されたと伝わる。元和9年(1623)、天徳院建立以降、地蔵堂の所を「下馬」と称し、馬での参拝者はここで降りなければならなかった。
■パンフレット「中心市街地石造物マップ」掲載 金沢城東側エリア
 横山家の墓所(松山寺)〒920-0933金沢市東兼六町5-6 
 当寺は加賀八家横山家の菩提寺。墓所に宝篋印塔三基が並んで建つ。中央には「無量院殿」(二代長知室)と、向かって左側には「陽山春永居士」(二代長知子か)の法名を刻む。野田山墓地に埋葬されていない室・子などの墓所。
■パンフレット「中心市街地石造物マップ」掲載 金沢城東側エリア
 九世供養塔(波着寺)〒920-0935金沢市石引2-18-1 
 当寺は泰澄大師が白山の本地仏として観音を安置したのが始まり。越前府中時代の藩祖利家が祈願所とし、金沢入城後、元和5年(1619)に現在地に移る。宝篋印塔は当寺九世(□圓大和尚)の百日供養のために建立した。
■パンフレット「中心市街地石造物マップ」掲載 金沢城東側エリア
 八島龍介の墓(真行寺)〒920-0935金沢市石引2-4 
 八島家は三代藩主利常に御射手として禄100石で仕えた権左衛門に始まる。龍介は分家の系譜を引き、禄250石を賜る。御馬廻組の永原善太夫に属し、弓を教授した。
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 横向き地蔵尊(真行寺)〒920-0935金沢市石引2-4 
 藩政時代刑場に引かれる罪人が一本松の橋西詰に建つ地蔵に顔を向け、それを悼んで遺族が横向きの地蔵を造り橋詰に安置したという。明治41年には他の地蔵2体と共に真行寺地蔵堂に合祀した。
■パンフレット「中心市街地石造物マップ」掲載 金沢城東側エリア
 永原甚七郎の墓(棟岳寺)〒920-0935金沢市石引2-4-6 
 1813 ~ 1873。永原甚七郎は「天狗党の乱」で監軍として功をなす。幕府に乱の主謀者などに対し穏便な処置を求めたことで有名。享年60。墓の隣には水戸藩士慰霊碑の水府義勇塚がある。
■パンフレット「中心市街地石造物マップ」掲載 金沢城東側エリア
 水府義勇塚(棟岳寺)〒920-0935金沢市石引2-4-6 
 元冶元年(1864)に起きた水戸藩尊皇攘夷派志士による「天狗党の乱」で幕府側に処刑された水戸浪士、武田耕雲斎らの慰霊碑。明治5年(1872)に永原甚七郎が自費で建立した。
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 六地蔵尊(棟岳寺)〒920-0935金沢市石引2-4-6 
 堂内に六体の地蔵尊が安置されている。それぞれ手に錫杖、宝珠、蓮をそれぞれ持ち連座台に立つ。正徳5年~宝暦6年の紀年銘を刻むが、縁起由来等は不明である。
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 吉田長淑の墓(棟岳寺)〒920-0935金沢市石引2-4-6 
 吉田長淑(1779 ~ 1824)は加賀藩が江戸で登用した我国初の蘭方内科医。文政7年、金沢で麻疹を発症した十二代藩主斉広の治療の為、金沢へ急行するも無理と過労が重なり到着後まもなく没す。享年46。
■パンフレット「中心市街地石造物マップ」掲載 金沢城東側エリア
 江間氏先祖累代墓(棟岳寺)〒920-0935金沢市石引2-4-6 
 江間氏はもと越前朝倉氏の家臣井上三左衛門の子江間隼人に始まる。隼人の子竹林坊が藩祖利家に仕え、竹林坊の子口安が歯医師となる。墓は口安の弟の系譜を引き、藩主の御典医となり、300石を禄した篁斎などが葬られている。
■パンフレット「中心市街地石造物マップ」掲載 金沢城東側エリア
 赤座吉家の墓(棟岳寺)〒920-0935金沢市石引2-4-6 
 赤座吉家(?~ 1606)は初め織田信長に仕えて越前南条郡領主となる。慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の後に領地を失うが、子の孝治が二代藩主利長に仕え、禄7,000石を賜る。三代藩主利常の時に永原と改姓した。
■パンフレット「中心市街地石造物マップ」掲載 金沢城東側エリア
 献燈(猿丸神社)〒920-0965金沢市笠舞3-23-15 
 燈籠の正面に「献燈」、右側面に「天保十四葵卯/四月吉日/油傳建立」と刻まれている。奉納者の油傳は当地笠舞の旧家で氏子総代の村本家一門と伝えられている。また、拝殿前にも同年月に奉納された燈籠が一対ある。
■パンフレット「中心市街地石造物マップ」掲載 金沢城東側エリア
 子安地蔵尊(鶴林寺)〒920-0933金沢市東兼六町5-18 
 当寺は大智禅師を開山として創建された祇陀寺で、三代藩主利常の代に鶴林寺と改め、現在地に移転、藩主前田家の祈願所となる。地蔵としては類例のない精緻な造りで、十二代藩主斉広室真龍院と奥女中達が寄進したと伝わる。
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 不動明王坐像(猿丸神社)〒920-0965金沢市笠舞3-23-15 
 鳥居前の石祠内に安置。いつ頃、誰による奉納かは不明。神社の言い伝えでは、目を患った女性がこの辺りに流れる湧水で目を洗ったところ、治癒したので不動明王を寄進したとされる。この像前に文久三年の銘が刻まれた花立がある。
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 笠舞地蔵尊〒920-0965金沢市笠舞2-21-10 
 石堂内に地蔵坐像が7体並ぶ。寛文10年(1670)五代藩主綱紀は飢饉難民を収容する施設(お救い小屋)を笠舞の地に設置。天保8年、この地で亡くなった人々を供養するために地蔵尊を造立し、堂に安置した。石工は琢磨。
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 お銀小金伝説の碑(法然寺)〒920-0967金沢市菊川2-3-8 
 お銀という娘が継母にいじめ殺されたが、継母の娘の小金は仲の良かったお銀を助ける事が出来ず嘆き悲しみ後を追った。母は供養のために諸国巡礼の旅に出たという、その伝説の石碑である。なお、木像の小金地蔵尊は本堂内に安置。
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 俳人櫻井梅室の墓(慶覚寺)〒920-0968金沢市幸町10-6 
 櫻井梅室は明和6年(1769)金沢で生まれた。天保の三大俳人、門人は五十余国に及ぶ。嘉永4年(1851)に「花之本宗匠」の称号を得た。京都で亡くなり、分骨され当寺に墓を建立する。享年84。
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 奉納燈籠(石浦神社)〒920-0964金沢市本多町3-1-30 
 基礎部を石垣積にした燈籠。身部正面に「國家安全 御武運長久」と刻む。幕末から明治維新へと政治的に大きく歴史が変遷する時、国家の安全と武運長久を願って5名の氏子が奉納したもの。
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 御神燈(安江住吉神社)〒920-0022金沢市北安江2-15-37 
 境内中央にある参道の両脇に天明2年と文化2年(1805)に奉納された2対の燈籠と、1対の狛犬がある。大坂の北前船の船主が航海の安全と感謝を願い奉納した。当社は大阪の住吉大社と関連がある。
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 橘勝国の墓(久昌寺)〒920-0849金沢市堀川新町7-50 
 墓塔の銘文は風化により判読できない。加賀刀工の二代陀羅尼家重の子で、寛文元年(1661)、橘勝国と改名。刀には威厳もあり三本杉の刃文を得意とし、辻村兼若と共に加賀新刀の双璧と讃えられた。勝国の名は明治13年まで世襲された。
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 辻村兼若の墓(久昌寺)〒920-0849金沢市堀川新町7-50 
 初代は美濃国関出身。二代目は慶長10年(1605)、二代藩主利長に招かれた。刃文の名工として加賀新刀を確立し、「加賀正宗」と称された。代表作は元和7年(1621)の刀「越中守藤原高平」(県指定文化財)がある。
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 六地蔵尊(久昌寺)〒920-0849金沢市堀川新町7-50 
 山門をくぐり、左手に地蔵堂あり。文化3年(1806年)浅野川大洪水により埋まるまで堤防上(現在の北安江町)にあって刑場に向かう罪人を見守ってきたという。大正2年現在地に移設される。本地蔵の石材は珍しく赤戸室である。
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 常夜燈(恵光寺)〒920-0851金沢市笠市町15-37 
 山門をくぐり、右手にある常夜燈。奉納は加賀藩お抱え絵師岸井家によるもの。右面に4名の法名、左面に「文政十一年五月」と年号を刻む。岸井静斎は藩の歩士で、絵を森西園に学び、後に岸駒・大雅の画風を好んで描いた。
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 名号塔(安楽寺)〒920-0933金沢市東兼六町11-1 
 山門脇に建つ。正面に「南無阿弥陀佛」、左面に「寛文十三年七月十五日祐藤□□敬白」と刻む。当寺は脇田家菩提寺で、代々の墓がある。左側に石造地蔵菩薩立像がある。
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 開運燈籠(崇禅寺)〒920-0845金沢市瓢箪町5-43 
 ねまり牛4頭が支える燈籠に「開運塔」の文字を刻み、「梅の枝」を陽刻。台座に綿津屋政右衛門など寄進者223人の銘を刻む。法華経7万字を一字一石経とし埋納したと伝わる。かつて本塔は浅野川を航行する船から眺められた。
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 地蔵堂(崇禅寺)〒920-0845金沢市瓢箪町5-43 
 藩政期から奉献された地蔵尊など9体を納めた祠堂。中央に合祀された釈迦如来坐像を配し、右奥には右手に真鍮製錫丈、左手に宝珠を持つ地蔵尊は庶民の崇拝を集めたという。左奥の地蔵尊の向背頂部に梵字があるが不鮮明。
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 ねまり牛(崇禅寺)〒920-0845金沢市瓢箪町5-43 
 安政5年7月の「泣き一揆」後、藩主前田家と関わりが深い当寺に天神様の使者とされる臥牛像を寄進。像は見事な彫技により立体感あふれ、台座正面には梅鉢紋を中心に京三度の綿津屋政右衛門のほか複数の寄進者名を刻む。
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 石祠(平岡野神社)〒920-0031金沢市広岡1-11-1 
 拝殿前の二つの石祠中に各1体の小石仏(種類不明)あり。祠左側面に「嘉永二巳酉八月造之」と奉納年月を刻む。「社記古蹟」に「宝永参年参月、広岡の神木は木曽義仲陣所の松と称する。その根方に二体小地蔵あり」と記す。
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 身替り地蔵尊(放生寺)〒920-0031金沢市広岡1-17-25 
 天和2年に当寺の住職が彫ったものという。加賀八家前田土佐守が奉信していたが、息女が天然痘になり、地蔵尊に治癒を祈願したところ、地蔵の顔が真黒に変化し、娘の身替わりとなったという。
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 手水鉢(金沢東別院)〒920-0854金沢市安江町15-52 
 市内の手水鉢では最大級のものである。右側面に「嘉永五子歳三月寄進」「戸室石切甚□/越中屋与二石□/石屋太兵衛」の銘を刻む。3名の石工職人等の名がある。長大な手水鉢は幕末の金沢真宗教団の信仰熱を物語るものであろう。
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 生駒直勝の墓(高巌禅寺)〒920-0862金沢市芳斉2-15-33 
 生駒家開祖。直勝7歳の時、織田信長に仕え、生駒姓を名乗る。後に二代藩主利長に仕え禄5,000石を賜る。三代藩主利常の命で芳春院に侍し、慶長19年江戸で没す。享年51。墓塔は小祠堂中に直勝夫妻の小振りの五輪塔を安置。
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 生駒直方の墓(高巌禅寺)〒920-0862金沢市芳斉2-15-33 
 父直義の没後禄4,500石を受け継ぐ。火消し役となり、元禄7年没。直方の室は三代藩主利常の側室であった五条局で、慶安3年(1650年)、命により懐妊のまま直方に嫁し、同年12月利常第8息女龍姫を出産。
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 生駒重信の墓(高巌禅寺)〒920-0862金沢市芳斉2-15-33 
 1654 ~ 1719。普請奉行、先筒頭などを歴任。俳諧を好み「万子」と号す。芭蕉に師事し「そこの花」を編著する。墓塔横に句碑「蓮の実の中はひそかに巻葉かな」がある。享年66。
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 一柳監物の遺髪塔(高巌禅寺)〒920-0862金沢市芳斉2-15-33 
 1619 ~ 1697。伊予国西條藩主(25,000石)、寛文5年(1665)罪を得て改易、加賀藩お預けとなる。五代藩主綱紀は扶持を与え、優遇した。後に幕府へ助命嘆願し、貞享3年(1686)に許された。享年78。塔は三つの笠と軸部からなる。
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 奥村永福の墓(永福寺)〒920-0933金沢市東兼六町18-8 
 1541 ~ 1624。奥村永福は藩祖利家の重臣、末森合戦で活躍した武将。境内裏の崖面に並ぶ7基の五輪塔のひとつ。「祖師西来意」の文字と「永福院殿快心宗活居士」の法名を刻む。享年84。野田山にも墓がある。
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 青木芳斎の墓(高巌禅寺)〒920-0862金沢市芳斉2-15-33 
 天正初期より幾多の武将に仕え、大坂の両役では松平忠直に従い功を立てる。後に剃髪し阿房斉と称す。元和9年(1623)三代藩主利常より禄5,000石を賜り、晩年は芳斎と号した。芳斉町名の由来となる。享年72。
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 浅香三郷の墓(高巌禅寺)〒920-0862金沢市芳斉2-15-33 
 浅香家は紀伊国(和歌山県)の出身。初代当主左馬助三郷は蒲生氏郷に仕えた後、慶長19年(1614)三代藩主利常に禄3,750石で仕えた。馬廻頭をつとめ、派手な装束を身につけたことで評判となった。墓塔は六重の笠をもつ層塔。
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 出世地蔵尊(栄昌庵)〒920-0913金沢市西町4番丁14 
 当寺は享保15年(1730)に祇陀寺第十九代眠岩が開祖大智報恩のため創建、大正4年六斗林から当地に移転。地蔵は天明8年に信州で造られた。当初お堂は小さかったが、平成19年に通り面して祠堂を再建。「出世地蔵尊」と命名。
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 四代藩主墓燈籠群(尾山神社)〒920-0918金沢市尾山町11-1 
 もと天徳院前田家墓所の四代藩主光高墓の参道にあったが、昭和27年に墓地を野田山に移設した際、2基を尾山神社へ寄進したもので、摂社金谷神社前にあり。他に天徳院境内に17基移設されている。
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 長家上屋敷の層塔(尾山神社)〒920-0918金沢市尾山町11-1 
 藩政時代に加賀八家長家上屋敷にあったとされる塔。明治時代に屋敷廃絶以降に尾山神社に移設されたといわれる。層塔は、奇数の笠が一般的であるが、本塔は十二塔である。
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 松平康正の碑(尾山神社)〒920-0918金沢市尾山町11-1 
 元治元年(1864)「禁門の変」で、加賀藩尊王攘夷派は十三代藩主斉泰の世子前田慶寧を擁し上洛。長州藩が敗退したため同候は無断帰国し、その責めを負い家老松平康正は近江の海津にて切腹。明治維新後、名誉回復されたため建立。
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 今枝仁王尊〒920-0867金沢市長土塀1丁目 
 吽形金剛力士立像。今枝家二代直恒が養子として来仕する際、実家の日置累代の仁王像の内一体を守護仏として附与せられた。高岡町の上屋敷内に堂宇を建立し、その後長土塀の下屋敷に移し、日を定めて一般に開放した。
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 室鳩巣の石柱〒920-0867金沢市長土塀1丁目 
 儒学者室鳩巣は五代藩主綱紀に金沢へ招かれ、長町六番丁に21年間居住した。仁王尊の霊威にうたれ、堂宇入口に石柱を立て「此奥霊験仁王在」と彫り、標識とした。室鳩巣は後に幕府の儒官、更に八代将軍吉宗の侍講となる。
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 川北家の墓所(善照坊)〒920-0867金沢市長土塀2-5-19 
 川北家五代目は僧善照坊に付き従い北国に下り、僧となる。七代目の時、木町で木綿を商い、幕末まで続けた。墓は「木綿屋」の屋号を使用した時に建立。墓の石材は赤戸室であったが、昭和48年上部を残して改修。
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 千木野屋の墓(善照坊)〒920-0867金沢市長土塀2-5-19 
 商人の墓。藩政時代から北国街道沿いの高岡町に広い屋敷を構え、植木を商う。生業は明治時代以降に変わったが、真宗系寺院で藩政時代から続く商人の墓は珍しい。
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 大工弥三郎の碑(馬坂)〒920-0934金沢市宝町7-19 
 江戸後期、天神町発生の火災が神社に延焼した時、大火傷を負いながら御神体を持出した大工弥三郎の行動を称えた碑。碑面中央に「南無阿弥陀佛」、右脇に「天保九年 俗名大工弥三郎」、左脇に「四月建立 天神町馬坂前田」の名を刻む。
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 荒木家の墓所(浄住寺)〒920-0867金沢市長土塀3-13-22 
 荒木家初代当主善太夫は、父が摂津守村重といわれる。天正19年(1591)藩祖利家から千石を拝領、越中城端城主をつとめ、武蔵八王子城攻めで戦死。その後、弟が家督を継ぎ、明治まで家系は続いた。墓は文政期にまとめたもの。
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 小塚秀正の墓(浄住寺)〒920-0867金沢市長土塀3-13-22 
 初代小塚家当主の淡路秀正(9,000石)は藩祖利家の荒子以来の家臣。二代藩主利長の時に高岡へ従い、三代藩主利常の大坂冬の陣に従い、夏の陣の時には金沢城代を勤める。利家入城後城内に屋敷があったが、後に芳斉町に移転。
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 凡兆の墓(養智院)〒920-0981金沢市片町2-13-20 
 金沢の生まれ。京都に上り医者を志す。妻と同時に芭蕉に入門。向井去来と共に編集した俳句選集「猿蓑」は有名である。正徳4年(1714)没。墓地内に句碑「上ゆくと下来る雲や秋の天」がある。墓塔は五輪塔の空風輪を再利用か。
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 鬼川延命地蔵尊(養智院)〒920-0981金沢市片町2-13-20 
 天正年間(1573 ~ 1591)大野庄用水(鬼川)開削の際、土中より発見された地蔵。この時の改作奉行の富永佐太郎が当院に寄進した。地蔵には大同2年(807)と記されていることが寺に伝わる。
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 富永家の墓所(養智院)〒920-0981金沢市片町2-13-20 
 富永家はもと小田原北条家の家臣といわれ、初代当主は二代藩主利長に禄2,000石で仕えた。当家は鬼と因縁深く、代々鬼を祀った。天正年間に富永佐太郎が大野庄用水開削の任にあたり、この用水を“鬼川”と称したと伝わる。
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 義猫塚(法船寺)〒920-0866金沢市中央通町11-46 
 「法船寺のねずみ退治」という昔話に関連する石塔。この伝承は享保年間(1716 ~1736)、法船寺に貰われた猫と助っ人の猫が自らの命を賭して化け鼠を退治した話である。代々の住職が「義猫塚」として手厚く弔った。
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 義賢名号塔(法船寺)〒920-0866金沢市中央通町11-46 
 山門の左手に石垣積みの基礎上に名号塔が建つ。正面は方形枠に一段彫り下げ、リズミカルな書風の「南無阿弥陀佛」と花押を刻む。江戸後期に活躍した捨世派僧の念仏行者「義賢」の揮毫。義賢は貴賤を問わず信仰を集めた。享年54。
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 馬坂不動尊(高源院)〒920-0934金沢市宝町7-16 
 小立野から天神町に下る急坂の途中にあるお堂に不動明王を祀る。堂中央にある竜頭から滴り落ちる湧水で目を洗えば、眼病に御利益があるという言い伝えがある。堂内に小ぶりの石造不動明王が置かれている。
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 子安地蔵尊(高源院)〒920-0934金沢市宝町7-16 
 高源院前の地蔵堂内右端に半跏座の地蔵尊が安置されている。台座に当院七世大圓が文政13年に建立した銘文が刻まれている。
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 高沢忠順の墓(西養寺)〒920-0831金沢市東山2-11-35 
 1731 ~ 1799。高沢家は、元々横山氏に仕えていたが、後に三代藩主利常に450石で仕える。忠順は能州郡奉行・改作奉行などを務め、藩主利常の改作法に心酔して地方行政に能力を発揮し、『改作旧記』を遺した。
■パンフレット「卯辰山山麓地区石造物マップ」掲載
 今枝家の墓所(西養寺)〒920-0831金沢市東山2-11-35 
 今枝家は人持組筆頭・禄高14,000石。加賀藩家老職を務める。墓石は七代当主とその家族のもの。以前は土饅頭の上に墓石を置いたといわれるが、現在は失われ、二列に整備。野田山墓地にも今枝家の墓所がある。
■パンフレット「卯辰山山麓地区石造物マップ」掲載
 燈籠(来教寺)〒920-0831金沢市東山2-14-22 
 当寺は近江より金比羅大権現、山城国鞍馬山から毘沙門天を勧請。伝聞では、藩政期、藩の許可を得て富くじを発行し、当選すると、翌春、四国讃岐の金比羅さんに代参した。この燈籠はその時の余剰金や寄付金などで建立されたと伝わる。
■パンフレット「卯辰山山麓地区石造物マップ」掲載
 百度塚(来教寺)〒920-0831金沢市東山2-14-22 
 百度参りする人々の目標として据えられた石標を「お百度石」と称する。当寺の十九世瑞玄が、寺の本堂の内陣と外陣の間に格子戸を設け、夜のお参りを可能にした。距離は短いが昔のままである。
■パンフレット「卯辰山山麓地区石造物マップ」掲載
 義賢名号塔(玄門寺)〒920-0831金沢市東山2-14-33 
 浄土宗では「南無阿弥陀仏」の称名で誰でも浄土へ導かれるとする。本塔の六字名号は江戸末期の念仏行者「義賢」の揮毫による。元は門前にあったが、道路拡張のために境内に移された。
■パンフレット「卯辰山山麓地区石造物マップ」掲載
 「開運辨財天尊」の碑(誓願寺)〒920-0831金沢市東山2-19-21 
 山門前石段左手にある、「開運出世辨財天尊(一部欠損)」と彫られた石碑。本堂内にある「宇賀弁財天」は神奈川県に所在する江ノ島神社と縁起があり、芸能上達を願う卯辰茶屋街の芸妓や商売繁盛を願う商人に篤く信仰された。
■パンフレット「卯辰山山麓地区石造物マップ」掲載
 道願屋彦兵衛の墓(誓願寺)〒920-0831金沢市東山2-19-21 
 氷室万頭の創案者で享保年間(1716 ~ 1736)に川南町(現片町)大橋東側に和菓子屋を営む。夏季に徳川将軍家に献上した氷室の氷と共に涼をとる和菓子として創案された氷室饅頭は今も庶民に親しまれ、夏の風物詩となっている。
■パンフレット「卯辰山山麓地区石造物マップ」掲載
 飴屋弥兵衛の墓(誓願寺)〒920-0831金沢市東山2-19-21 
 越前朝倉氏家臣の末裔で「若松飴」の創始者。京都で薬飴の製法を学び、河北郡若松村(現若松町)で飴を作り加賀藩主に献上して藩の「御用飴」となる。飴屋として初めて店舗を卯辰観音町に構えて飴を販売した。
■パンフレット「卯辰山山麓地区石造物マップ」掲載
 越野佐助の墓(誓願寺)〒920-0831金沢市東山2-19-21 
 1808 ~ 1885。能登屋佐助と名乗り卯辰西養寺前に住み、江戸から金箔を仕入れ販売していた。天保期(1830 ~1843)、加賀藩での金箔製造規制解除を求め、幕府から製造の公認を得るなど、金沢箔製造の礎を築いた。
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 初代中村歌右衛門の墓(真成寺)〒920-0831金沢市東山2-25-73 
 1714 ~ 1791。屋号加賀屋、本名大関栄蔵、医師の大関俊安の子として生まれ、寛保2年(1742)中村歌之助から歌右衛門に改名。主に上方で活躍、悪役を演じて当代随一といわれる。石碑は文政6年に実子三代歌右衛門が追悼のために建立した。
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 五十嵐道甫の墓(真成寺)〒920-0831金沢市東山2-25-73 
 ?~ 1678。寛永年間頃、三代藩主利常に京都より招かれ、加賀蒔絵の基礎を築いた。以降、代々五十嵐姓を名乗り、金沢にて蒔絵を生業とした。なお、同墓地内には金沢漆器商工業協同組合の建立による顕彰碑もある。
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 宮崎友禅斎の墓(龍国寺)〒920-0831金沢市東山2-25-72 
 元禄の頃、京都で活躍した扇絵師で、晩年は金沢で御用紺屋・太郎田屋四代目茂平と共に友禅染めを始める。石碑は友禅斎23回忌に建立されたといわれる。なお、生まれは金沢か京都とする2説があり、定かではない。
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 題目塔(妙正寺)〒920-0831金沢市東山2-18-8 
 本堂前の階段上左側にあり、「南無妙法蓮華経」と3面に刻む。当寺は十三代藩主斉泰の生母小野木八百子( 栄操院)の祈願所であったことから藩の庇護を受けた。
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 大黒天寶前燈籠一対(妙国寺)〒920-0831金沢市東山2-18-9 
 当寺には日蓮作と伝えられる大黒天像が安置されており、別名大黒寺とも呼ばれる。大黒天に関連して小槌形の燈籠が奉納されたものと考えられる。
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 宝生紫雪の墓(全性寺)〒920-0831金沢市東山2-18-10 
 十五代宝生大夫弥五郎友干。文久2年(1862)加賀藩の御手役者「波吉宮門」の世話で金沢へ移住。隠棲し「紫雪」と号す。翌年、浅野川河畔の天道寺(現浅野川稲荷神社)で亡くなる。将軍家の庇護の下、藩政期最後で最大の勧進能を興業。
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 諸橋権之進の墓(全性寺)〒920-0831金沢市東山2-18-10 
 初代は能登鳳至郡諸橋郷の出身。代々「権之進」を名乗り金春流能大夫を務める。子孫は三社三構(現芳斉2丁目)の正福寺の向いに能舞台のある屋敷に居住。十一代藩主治脩に召され、加賀藩宝生流能大夫として御手役者となる。
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 波吉八音の墓(全性寺)〒920-0831金沢市東山2-18-10 
 波吉宮門(紅雪)の5男。波吉家は代々御手役者で、七代以降「宮門」を襲名。九代の宮門甚次郎(八音の父)は、宝生紫雪の弟子で「紅雪」と号し江戸の弘化勧進帳にも出演。万延元年(1860)4月、八音は金沢城二の丸の能舞台で能を演じた。
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 理松院の墓(妙泰寺)〒920-0831金沢市東山2-17-15 
 豊臣秀吉の養女、初代藩主前田利家の娘豪姫と宇喜多秀家との間に生まれた子女理松院を葬ったもの。この墳墓に歯痛の時、箸を供えて祈願すると、平癒するといわれている。
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 上木家の墓所(蓮覚寺)〒920-0831金沢市東山2-18-27 
 三代藩主・利常の生母「ちよ」の生家上木家の墓地。五輪塔と笠付墓碑がある。上木家は朝倉義景の時代に越前府中(現在の福井県武生市)に居住した。
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 河野四郎右衛門の墓(妙圓寺)〒920-0816金沢市山の上町1-36 
 藩校明倫堂で書の講師を務めた河野四郎右衛門の墓、隣に室墓がある。墓碑の左側面に功績を刻む。河野家は最初に浜松藩主大田資宗に仕え、その後四代藩主前田光高室(徳川家光養女)に召し出され、以後前田家に仕えた。
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 大樋長左衛門の墓(月心寺)〒920-0816金沢市山の上町1-43 
 五代長左衛門が、天保10年に四代目が亡くなったとき建立した。初代長左衛門(1630~1712)は裏千家仙叟宗室が金沢へ招かれた折、「茶碗師」として同道。河北郡大樋村(現在の大樋町)に窯を築く。
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 仙叟宗室の墓(月心寺)〒920-0816金沢市山の上町1-43 
 1622 ~ 1697。裏千家四代目。38歳の時、五代藩主綱紀に京都より招かれ、150石扶持茶事奉行となり、金沢城下に茶道を広めた。元禄10年(1697)76歳で歿、墓所は京都大徳寺聚光院にあるが、後に月心寺に分骨された。
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 題目塔(本法寺)〒920-0816金沢市山の上町1-34 
 山門前左側に建つ題目塔。碑正面に「南無妙法蓮華経」と刻まれている。当寺は三代藩主利常の祈祷所として建立された。
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 徳本名号塔(心蓮社)〒920-0816金沢市山の上町4-11 
 名号塔は山門手前の地蔵堂に隣接。塔に刻まれた「徳本」は紀伊国日高郡出身で、各地を巡り昼夜不断の念仏や苦行を行い、念仏聖と呼ばれる。本塔は徳本歿後に建立されたものである。塔直下に一石一字経が埋納されている。
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 献燈一対(心蓮社)〒920-0816金沢市山の上町4-11 
 燈籠は本堂の前にあり。奉納者の中谷家は藩政時代に藩の賄方を務め、中谷次右衛門は「活き作り」の名人で中谷家中興の祖といわれている。
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 手水鉢(心蓮社)〒920-0816金沢市山の上町4-11 
 手水鉢は本堂正面にあり、平面形は長方形を呈す。正面に「元禄丙子 開禅院 除心」の文字を刻む。
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 立花北枝の墓(心蓮社)〒920-0816金沢市山の上町4-11 
 ?~ 1718。小松生れの刀匠、蕉門十哲の一人。元禄2年(1689)芭蕉来杖の折に、入門し越前松岡まで同行。墓は幾度か修築・修覆され正面に「趙北枝先生 享保三年五月十二日」、左側面に「施主藩月堂」を刻むが、施主の詳細は不明である。
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 献燈(光覚寺)〒920-0816金沢市山の上町5-1 
 本堂の左側にある燈籠。六代小川知安が建立。小川家は元近江国に住み、豊臣秀次・宇喜多秀家に仕え、慶長7年(1602)には二代藩主前田利長に仕えた。
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 富士大権現燈籠(小坂神社)〒920-0816金沢市山の上町42?1 
 表参道左側、国道沿いにある藩政末期の堂々とした燈籠。願攘厄災燈籠とは大きさと建立時期は1年異なるが一対の物と見られる。「慶応元年 願攘厄災 富士大権現 道中安全」と刻む。
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 願攘厄災燈籠(小坂神社)〒920-0816金沢市山の上町42?1 
 参道石階段を昇りきった玉垣内右側にある。当初は表参道入り口街道筋右側に設置されていたが、道路拡幅時に現在地に移設。「慶応二歳丙寅 願攘厄災 町内安全、春日御社前」と刻む。
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 寄進燈籠一対(小坂神社)〒920-0816金沢市山の上町42?1 
 社殿正面両脇にある。「尾張町漆屋喜兵衛 元禄二年己巳歳 春日社奉寄進燈籠」と刻むことから、当社は春日明神の勧請神を祀ることがわかる。参道の途中には享保20年(1735)と文化13年(1816)の燈籠各一対がある。
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 御神燈一対(小坂神社)〒920-0816金沢市山の上町42?1 
 参道石段中程の両側にあり、「寛延三庚午歳五月吉日 願主北間屋七郎兵衛」と刻む。燈籠の竿部の中央が括れ、県外産の石材が利用されている。また、境内には狛犬と狛鹿一対、拝殿右奥には「春日山少名彦命碑」がある。
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 題目塔(静明寺)〒920-0921金沢市材木町28-18 
 正面に大きく「南無妙法蓮華経」、その下に「一石一字」と発願主・井村屋徳兵衛の他に、多数の町人名を刻む。
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 搆中一結(静明寺)〒920-0921金沢市材木町28-18 
 花頭枠上部に「搆中一結」と刻むが、これは享保の頃、金沢法難により犠牲者が出た折に、本山から渦中の信徒に与えたもので、講衆の固い信心がしのばれる。
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 佐々木日向守の墓(静明寺)〒920-0921金沢市材木町28-18 
 加賀藩士多羅尾家に仕え、博打で出奔後、江戸・京都と移り、持ち前の理財の才覚で出世。明和元年(1764)に、故郷金沢を再訪。同3年には従五位下を叙爵、明和4年歿。墓はその子田中源五左衛門が建立した。
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 筆硯の墓(静明寺)〒920-0921金沢市材木町28-18 
 硯型の台石に筆を造形した墓である。当山十六世日當上人の人柄を偲び弟子たちが建立したもので、墓に手を合わせれば、書道が上達するといわれている。
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 菊池大学の墓(静明寺)〒920-0921金沢市材木町28-18 
 菊池大学は禄高3,200石、生洲小路(現武蔵町)に屋敷を構えた。父菊池武勝右衛門は佐々成政の旗本であったが、その後利家に仕え、氷見城主(1万石)となる。父親の過去が災いし、晩年は不遇で、元菊町に下屋敷があった
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 岸駒両親の墓(静明寺)〒920-0921金沢市材木町28-18 
 岸駒は金沢から京都に上り「岸派」を開いた絵師で、特に虎の絵が有名。文化6年金沢城二の丸御殿の障屏を描くため、十二代藩主斉広に招かれ来沢した折、両親の墓を再建した。
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 「南無大悲観世音菩薩」の碑(観音院)〒920-0831金沢市東山1-38-1 
 右面に「釋宗栄禅定門 釋妙休禅定尼 為二世安楽也」。左面に「天和二年 九月吉祥日」と刻む。礎石後部に「弟子建」の文字があり、門弟が師匠夫妻の冥福を願い建立したものだが、師匠の詳細は不明。
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 献燈一対(観音院)〒920-0831金沢市東山1-38-1 
 津幡は北国街道と能登往来の分岐点にあり、寛永頃に宿駅として整備され、交通の要衝として繁栄。正面に「津幡驛」左面に「献燈」右面に「文久二年(1862)」と刻むが、観音院に建立の由来について詳細は不明。
■パンフレット「卯辰山山麓地区石造物マップ」掲載
 関孝和の墓(観音院)〒920-0831金沢市東山1-38-1 
 1640? ~ 1708。和算学者。幼少の時から算術に優れ算聖といわれた。武士、町人を問わず孝和に師事する者が多かった。安政4年、孝和150回忌に町家連中が建立した石碑で、碑文は漢文体で略歴などを記す。
■パンフレット「卯辰山山麓地区石造物マップ」掲載
 綿津野政右衛門の墓(観音院)〒920-0831金沢市東山1-38-1 
 1803 ~ 1865。卯辰茶屋町の綿津屋忠蔵の婿養子で、幕末の茶屋経営や芝居興行で知られた侠客。観音院に三重塔を再建、安政5年(1858)「泣き一揆」の七稲地蔵を建立。慶応元年(1865)62才で歿。石碑は「京三度」の世話人たちが建立。
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 松田東英の墓(観音院)〒920-0831金沢市東山1-38-1 
 1788 ~ 1847。現小矢部市生まれ。本名は就、芹齋と号す。幼少時から読書を好み医術を習い、金沢の医師松田家の養子となる。江戸・長崎で学び、医業を継ぐ。天保年間に加賀藩で最初に顕微鏡や望遠鏡を考案。東英48歳の時に墓を逆修した。
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 七稲地蔵(寿経寺)〒920-0831金沢市東山1-31-5 
 安政5年(1858)、米価高騰に苦しむ民衆が、卯辰山頂より金沢城に向かって大声で直訴した「泣き一揆」の首謀者七人を供養するため、卯辰茶屋町の侠客・綿津屋政右衛門が彫らせたもの。現在は門前堂内に移された。
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 御神燈(宇多須神社)〒920-0831金沢市東山1-30-8 
 上段玉垣右手前にある本神社最古の燈籠。銘文に「御神燈 文政十三寅歳九月吉日」と刻む。当社は金沢五社(他に、小坂神社、神明宮、椿原神社、安江八幡宮)の一つに数えられ、藩主前田家より特別の待遇を受けた。
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 御神燈(宇多須神社)〒920-0831金沢市東山1-30-8 
 拝殿左側にある燈籠。「文久弐年壬戌孟春 原屋□兵衛、笠屋清次郎/笠島尚/笠島ミつ」(火袋は後補で坪野石)と刻む。
■パンフレット「卯辰山山麓地区石造物マップ」掲載
 奉納燈籠(宇多須神社)〒920-0831金沢市東山1-30-8 
 本神社で最大の高さを誇る燈籠。「奉納仕□講 文久三癸亥歳九月吉日 清輝橙」とあり、基礎には世話方卯辰平兵衛他5人の名を刻む。
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 富田重政の墓(慈雲寺)〒920-0831金沢市東山2-10-10 
 1564 ~ 1625。「重政」は朝倉家家臣山崎家から富田家に婿入し、前田利家から3代の藩主に仕える。末森合戦などで功を上げ、父景政から富田流を伝授され、「名人越後」と称賛された。寛永2年4月62歳歿、人持組13,700石。
■パンフレット「卯辰山山麓地区石造物マップ」掲載
 富田重康の墓(慈雲寺)〒920-0831金沢市東山2-10-10 
 1601 ~ 1643。「重康」は重政次男、父重政の後を継ぎ、家芸の剣法に専念した。晩年中風の病にかかったが、剣を持つと常人を圧倒したため、時に人恐れて「中風越後」と呼んだ。寛永20年42歳歿、人持組頭1万石。
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 富田重政次女の墓(慈雲寺)〒920-0831金沢市東山2-10-10 
 ? ~ 1640。「慈照院」は慶長11年(1606)奥村宗家三代栄政に嫁ぐ。4 男1 女( 栄清・栄従・栄張・栄相・女)を授かる。石廟には天女を陽刻、屋根の棟に家紋がみえ、内部には蓮の絵が描かれている(重政の墓にも蓮の絵がある)。
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 奥村栄政娘の墓(慈雲寺)〒920-0831金沢市東山2-10-10 
 ?~ 1645。「照光院」は奥村栄政の娘で、母は富田重政の次女。堀七郎兵衛秀治に嫁いだ。石廟には天女を陽刻、屋根の棟に家紋がみえ、内部には蓮の絵が描かれている。
■パンフレット「卯辰山山麓地区石造物マップ」掲載
 富田景周の墓(慈雲寺)〒920-0831金沢市東山2-10-10 
 1746 ~ 1838。7歳で本家に養われ、安永2年(1773)禄高2,500石を受け継ぎ、小松城番、御算用場奉行となり、文政11年83歳歿。加賀藩の歴史・地理の大家で、「越登賀三州志」など多数の著述がある。身部に功績を刻む。
■パンフレット「卯辰山山麓地区石造物マップ」掲載
 石幢(宗龍寺)〒920-0837金沢市鶯町41-1 
 角柱の各面上部に「六地蔵」とされる地蔵菩薩立像が彫られている。「大乗妙典一石一字」、「天保二年」、「為有縁無縁」の銘を刻む。2つの面に、当時の民衆の願いを銘刻。以前は山門近くに置かれていた。
■パンフレット「卯辰山山麓地区石造物マップ」掲載
 北辰星(宗龍寺)〒920-0837金沢市鶯町41-1 
 石祠扉に「波に亀と水泡」と刻む。中に北辰星と陰刻した八角石柱上に半球石を乗せる。北極星や北斗七星を神格化し、亀や玄武に乗る像がある妙見信仰との関連が考えられる。除災、福寿、国土擁護等を成せるという。
■パンフレット「卯辰山山麓地区石造物マップ」掲載
 天神供養塔(西養寺)〒920-0831金沢市東山2-11-35 
 宝篋印塔の塔身上に燈籠の中央部を乗せた形。笠の下に天神様を祀る。宝篋印塔は元々宝篋印陀羅尼経を収め、長寿、福徳、減罪を成せるという。特異な変形塔は神仏混淆の時代の姿を見る。
■パンフレット「卯辰山山麓地区石造物マップ」掲載
 松根城跡〒920-0136金沢市松根町レ5番外 
  松根城跡は加賀と越中の境となる砺波山丘陵の最高所に位置し、東西約140m、南北約440mの規模で、門跡や道跡等が発見されている。西端の幅25mの大堀切によって尾根上の道跡(小原越)が切断されており、小原越を戦時封鎖した可能性が考えられる。
■パンフレット「加越国境城跡群及び道」掲載
 切山城跡〒920-0163金沢市桐山町ウ27番外 
  切山城跡は、東西約200m、南北250mの規模で、発掘調査により門跡や、タイのソントー鉱山産の鉛で作られた鉄砲玉等が発見されている。東端の横堀の規模が大きく、越中側からの攻撃に備えて築城された城跡である可能性が高い。
■パンフレット「加越国境城跡群及び道」掲載
 (切山城跡)横堀・溝〒920-0163金沢市桐山町ウ27番外 
  横堀の底に岩盤を掘削した幅約40cm、深さ約30cmの溝がみつかった。柵などの痕跡か。
■パンフレット「加越国境城跡群及び道」掲載
 (切山城跡)横堀断面(現作業道沿いの壁面)〒920-0163金沢市桐山町ウ27番外 
  小原越を切断していたと推定できる、幅約3m、深さ約1.1mの堀跡。
■パンフレット「加越国境城跡群及び道」掲載
 (切山城跡)鉛玉(弾丸)〒920-0163金沢市桐山町ウ27番外 
  主郭櫓台整地土直上出土。
  分析によって、タイのソントー鉱山産の鉛を使用していることがわかっている。
■パンフレット「加越国境城跡群及び道」掲載
 (切山城跡)横堀1〒920-0163金沢市桐山町ウ27番外 
  このような横堀が城の南側に残っている。廃城後は小原越として使われた。
■パンフレット「加越国境城跡群及び道」掲載
 (切山城跡)土塁上の柵・塀跡〒920-0163金沢市桐山町ウ27番外 
  土塁上の柱穴検出状況。
  径15~20cmの穴が30~40cm間隔で並んでいる。
■パンフレット「加越国境城跡群及び道」掲載
 (切山城跡)主郭櫓台〒920-0163金沢市桐山町ウ27番外 
  建物の跡はみつからなかったが、焼土が多くみつかり、鉄砲玉が出土している。
■パンフレット「加越国境城跡群及び道」掲載
 (松根城跡)虎口の門跡〒920-0136金沢市松根町レ5番外 
  建物の土台と考えられる岩盤ブロックを確認。柱間約2×1.3mで、周辺から16世紀後葉の土師器皿や鉄釘が出土している。
■パンフレット「加越国境城跡群及び道」掲載
 (松根城跡)横堀2〒920-0136金沢市松根町レ5番外 
  このような横堀が城全体を囲っている。
■パンフレット「加越国境城跡群及び道」掲載
 (松根城跡)大堀切〒920-0136金沢市松根町レ5番外 
  幅約14m、深さ2.6m以上の堀底及び高さ約2.5m、幅5mの畝状遺構を1基確認。
  この堀切によって、この上を小原越が通過することはなくなった。
■パンフレット「加越国境城跡群及び道」掲載
 (松根城跡)馬出虎口〒920-0136金沢市松根町レ5番外 
  門跡付近で帯状の岩盤ブロックを確認、門跡かは不明。
■パンフレット「加越国境城跡群及び道」掲載
 (切山城跡)主郭虎口の門跡〒920-0163金沢市桐山町ウ27番外 
  建物の土台と考えられる礎石を確認。
  柱間約2.3m四方が推定される。
■パンフレット「加越国境城跡群及び道」掲載
 (松根城跡)大堀切に切られた小原越〒920-0136金沢市松根町レ5番外 
  大堀切で切断された小原越跡を2条確認。
  山城が軍事的に道路を切断した初めての事例で、小原越を戦時封鎖した。
■パンフレット「加越国境城跡群及び道」掲載
 (松根城跡)大堀切の中の畝堀〒920-0136金沢市松根町レ5番外 
  横堀の底に岩盤を掘削した幅約40cm、深さ約30cmの溝がみつかった。大堀切の底に畝と堀が作られており、横移動の阻害を企図したものといえる。
■パンフレット「加越国境城跡群及び道」掲載
 おまる塚古墳(市指定史跡)〒920-0367金沢市北塚町152 
 おまる塚は古墳時代の墳墓です。南北23m、東西19m高さ4.5mの墳丘が残っており、円墳と考えられています。おまる塚古墳の北西に位置する宇佐神社古墳とあわせ、金沢市内における墳丘が残る古墳の一つです。
■パンフレット「古代の里探訪マップ」掲載
 びわ塚古墳(市指定史跡)〒920-0366金沢市南塚町118 
 びわ塚は古墳時代の墳墓です。南北20m、東西16m、高さ1.5mの墳丘が残っており、円墳と考えられています。平成9年に区画整理に伴う発掘調査が古墳の周辺で行われ、周溝の一部が見つかっています。
■パンフレット「古代の里探訪マップ」掲載
 金沢市埋蔵文化財センター(金沢縄文ワールド)〒920-0374金沢市上安原南60 
 埋蔵文化財センターは平成9年に出土品の整理・記録作業を行う施設として開設しました。来館者が作業工程や出土品を見学することができます。平成27年にはチカモリ遺跡の柱根や中屋サワ遺跡出土品を展示する金沢縄文ワールドが併設されました。
■パンフレット「古代の里探訪マップ」掲載
 東大寺領横江荘遺跡 上荒屋遺跡(国指定史跡)〒921-8065金沢市上荒屋7丁目 
 上荒屋遺跡は奈良・平安時代の遺跡です。昭和63年に発掘調査を行い、建物跡や、運河の跡などが見つかりました。また、「東庄」と墨書された須恵器がたくさん出土し、横江荘と関連する施設であることが明らかとなりました。
■パンフレット「古代の里探訪マップ」掲載
 東大寺領横江荘遺跡 荘家跡(国指定史跡)〒924-0011白山市横江町 
 東大寺領横江荘遺跡は奈良・平安時代の遺跡です。昭和45年の発掘調査では、何棟もの建物跡と大量の土器が出土し、横江荘の中心施設、荘家跡であることが判明しました。
■パンフレット「古代の里探訪マップ」掲載
 経塚(市指定史跡)〒921-8801野々市市御経塚2-335 
 経塚は戦国時代から江戸時代に作られた経典を永く後世に伝えるため地中に埋めたもので、町名の由来にもなっています。県内でも数少ない平野に立地する経塚です。
■パンフレット「古代の里探訪マップ」掲載
 古府縄文遺跡(市指定史跡)〒920-0362金沢市古府町南851 
 古府遺跡は縄文時代中期のムラの跡です。昭和28年の発掘調査では、竪穴住居や石囲い炉などが見つかり、表面に渦巻き模様を施した土器が出土しました。この土器は「古府式土器」とよばれ、縄文時代を研究する上で貴重な資料となりました。
■パンフレット「古代の里探訪マップ」掲載
 チカモリ遺跡(国指定史跡)〒921-8062金沢市新保本5-47 
 チカモリ遺跡は縄文時代晩期のムラ跡です。昭和53年に発掘調査を行い、347本の柱根が出土しました。円を描いて配置されていたので、建物の柱と考えられています。隣接地にはチカモリ遺跡や市内のほかの遺跡の出土品を展示する埋蔵文化財収蔵庫があります。
■パンフレット「古代の里探訪マップ」掲載
 御経塚遺跡(国指定史跡)〒921-8801野々市市御経塚1-549 
 御経塚遺跡は縄文時代後期より晩期にかけて営まれたムラの跡です。昭和29年に発見され、発掘調査により、竪穴住居、石囲い炉、配石遺構などが見つかりました。ムラの中心部に広場があり、この周囲に住居が環状に並んでいることがわかりました。
■パンフレット「古代の里探訪マップ」掲載
 野々市市ふるさと歴史館〒921-8801野々市市御経塚1-182 
 昭和58年に御経塚遺跡出土品の展示収蔵施設として開館し、平成4年に、市内遺跡の出土品等の展示と整理作業を行う施設を増築しました。館内には御経塚遺跡出土品の展示や、市内のほかの遺跡の出土品なども展示してあります。
■パンフレット「古代の里探訪マップ」掲載
 白山市立博物館〒924-0871白山市西新町168-1 
 白山市の歴史・文化を紹介する総合博物館です。2階常設展では、昭和45年に横江町地内で発見された東大寺領横江荘遺跡荘家跡の荘家一部が実物大で復元されているほか、ジオラマや出土遺物で遺跡を紹介しております。
■パンフレット「古代の里探訪マップ」掲載
 末松廃寺跡(国指定史跡)〒921-8836野々市市末松2丁目 
 末松廃寺は飛鳥時代の寺院跡です。発掘調査の結果、西に金堂、東に塔を配置する「法起寺式」の伽藍配置をとることが確認されました。塔の規模は大きく、後の国分寺の規模に匹敵するといわれています。当時、北加賀を支配していた豪族の「道君」が建てたといわれています。
■パンフレット「古代の里探訪マップ」掲載
 櫻井三郎左衛門像〒929-1215かほく市高松ヤ57-4 
  天正12年(1584)、越中の佐々成政が前田方の末森城を包囲したため、前田利家は末森城救援に向かう。高松村の櫻井三郎左衛門は海岸沿いを通過する抜け道を利家に進言したので、末森城救援に成功した。この功績により高松村は地子銀の永代免除が与えられ、藩政時代に宿場町として大きく繁栄したと伝えられる。
■パンフレット「富樫氏と一向一揆史跡探訪マップ」掲載
 賀茂神社社叢〒929-1105かほく市横山リ119番地1 
  賀茂神社が現在の横山の地に移ったのは大同2年(807)と伝えられており、平安時代の後期から戦国時代にかけて、京都の賀茂別雷神社(現在の上賀茂神社)の直轄領であった。天正12年(1584)の末森城の戦いでは、戦いに敗れた佐々成政の軍勢が撤退する際、伏兵を恐れて社叢に火を放ったと伝えられる。
■パンフレット「富樫氏と一向一揆史跡探訪マップ」掲載
 津幡城跡(町史跡)〒929-0326津幡町清水リ1 
  天正11年(1583)、加賀国は前田利家の支配するところとなり、越中に対する備えとして津幡に城を築き、弟の前田秀継に守らせた。翌年には、佐々成政の末森攻めの際に、末森城救済の軍議をここで開いた。※隣接して津幡ふるさと歴史館「れきしる」がある。
■パンフレット「富樫氏と一向一揆史跡探訪マップ」掲載
 鳥越弘願寺跡(町史跡)〒929-0465津幡町鳥越ニ111 
  創建は観応元年(1350)、北加賀における一向宗の最初の拠点と考えられている。寺院の規模は東西約210m、南北約330mと推測され、「オヤシキ」と呼ばれる主郭部を自然丘や土塁などが取り囲んでいる。
■パンフレット「富樫氏と一向一揆史跡探訪マップ」掲載
 笠野鳥越城跡(町史跡)〒929-0456津幡町七黒ニ79 
  元々は一向一揆の鳥越弘願寺を守るための砦であったが、天正11年(1583)に、前田利家が越中の佐々成政に備えるために、改良し使用した城。天正13年(1585)秀吉軍の越中進攻により、戦いがおさまると廃城となった。
■パンフレット「富樫氏と一向一揆史跡探訪マップ」掲載
 龍ヶ峰城跡(町史跡)〒929-0422津幡町上藤又ヘ31 
  近世北陸道を臨む龍ヶ峰城は、一向衆や佐々勢の城として活用された。城は北陸道に対して、いくつもの曲輪を設けており、道に対する強い意識が表れている。幅約7mの堀切や、狭く作られた入口や土塁などさまざまな防御施設が設けられている。
■パンフレット「富樫氏と一向一揆史跡探訪マップ」掲載
 切山城跡(国史跡)〒920-0163金沢市桐山町ウ27番外 
  標高139mの尾根頂部を中心に造成された、東西約200m、南北約250mの山城である。発掘調査により門跡や、タイ産の鉛で作られた鉄砲玉等が発見されている。東端の横堀の規模が大きく、越中側からの攻撃に備えて築城された前田利家方の城跡と推定されている。
■パンフレット「富樫氏と一向一揆史跡探訪マップ」掲載
 松根城跡(国史跡)〒920-0136金沢市松根町レ5番外 
  加賀と越中の国境となる砺波山丘陵の最高所に築城された東西約140m、南北約440mの規模をもつ山城で、門跡や道跡等が発見されている。西端の幅約25mの大堀切によって尾根上の道跡(小原越)が切断されており、小原越を戦時封鎖するなどした、佐々成政方の城跡であると推定されている。
■パンフレット「富樫氏と一向一揆史跡探訪マップ」掲載
 砂子坂道場跡〒920-1101金沢市砂子坂町ケ35番外 
  蓮如の布教によって建立されたと伝わる真宗道場に関する遺跡で、後の南砺市城端善徳寺及び同市福光光徳寺の故地と伝わっている。発掘調査では、蓮如が布教した時期を含む15世紀後半の土器・陶磁器や国境付近の尾根筋に延長約800mの堀跡が見つかっており、一向一揆の争乱に関係した遺構と推定される。
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 二俣本泉寺〒920-1102金沢市二俣町子8 
  嘉吉2年(1442)に越中井波瑞泉寺の如乗が開創した真宗大谷派の寺院。如乗は本願寺八世蓮如の叔父であることから、その繋がりが深く、本泉寺と名付けたのは蓮如で、本堂の背後にある九山八海の庭(県指定名勝)は蓮如作庭と伝わる。天正年間(1573-1591)には、佐々成政の兵火により焼失したが、慶長8(1603)年に前田家の庇護を受け、現在に至る。
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 伝燈寺〒920-0824金沢市伝燈寺町ハ179 
  臨済宗妙心寺派寺院、宝亀山と号し、覚円が延慶元年(1308)恭翁運良を開山にしたといわれる。加賀の五山派の有力寺院となったが、その後、実質的に河北郡一向一揆の影響下に置かれた。元亀4年(1573)織田信長勢に内通を謀って追われた富樫晴貞が当寺で自害した。
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 若松本泉寺跡〒920-1165金沢市若松町168-1 
  二俣越を臨む標高77mの丘陵上に所在し、蓮悟(蓮如七男)が長享元年(1487)に建立した若松本泉寺と伝わる。周辺には「御坊山」や「オヤシキ」などの地名が残る。加賀一向一揆では、松岡寺(能美郡波佐谷)・光教寺(江沼郡山田)と共に賀州三ヶ寺と称し、真宗勢力の中心の一つだったが、享禄4年(1531)の享禄の錯乱における焼き打ちで廃絶した。
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 金沢御堂〒920-0937金沢市丸の内71番18外 
  金沢城跡本丸部分が故地とされ、天文15年(1546)に石川郡一揆によって創建され、本願寺証如より本尊などを下付された。享禄の錯乱以前の賀州三ヶ寺、特に若松本泉寺の役割を受け継ぎ、加州惣国の政庁として機能した。天正8年(1580)に本願寺顕如と織田信長の和議が成立したが、柴田勝家が加賀に乱入し、開城した。
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 高尾城跡〒921-8153金沢市高尾町ウ31番地 
  標高190m程の丘陵先端部一帯に所在する山城。長享2年(1488)の一向一揆によって落城された加賀国守護・富樫政親の城として知られており、史料中には、富樫氏の城として多胡城や富樫城などと見える。見晴らし台が整備された場所は通称「ジョウヤマ」と呼ばれ、昭和45年の土取りで大半が失われたが、背後の通称「コジョウ」には現在も遺構が残る。
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 御廟谷(県史跡)〒921-8145金沢市額谷町 
  高尾城跡の南麓、七瀬川の谷頭の額谷町にある御廟谷は,加賀の守護富樫氏の累代の墓所と伝えられる。地形は四段に分かれ、上段の「寺屋敷」と呼ばれる位置には、石材が散在し、その下段には五輪塔一基を中心とする石塔がみられる。
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 善性寺〒921-8133金沢市四十万町リ153 
  真宗大谷派の寺院で、霊峰山と号し、応永34年(1427) に敬授が開山。3代法敬坊順誓のとき富樫氏の援助により寺基が固められた。また、蓮如上人が文明3年(1471)年12月上旬から翌年2月まで逗留した。宝物として、県指定文化財「版本 三帖和讃並正信念仏偈(4帖)」、市指定文化財「紙本墨書正信偈」など貴重な資料が伝世している。
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 大乗寺跡〒921-8815野々市市本町1-35-9 
  大乗寺は富樫家尚が建てた密教寺院で、その後の永仁元年(1293)、加賀国最初の禅寺となった。寺の位置は、市内北東部の本町から押野一帯にあったと推測されている。現在、本町にある高安軒(室町期に富樫高泰が開いたとされる寺)に「大乗寺旧址」の石碑が建つ。
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 富樫館跡石碑(市史跡)〒921-8815野々市市本町2-307-1 
  富樫館跡は、富樫氏代々の居館跡で加賀国の守護所でもあった。実際の館の場所は、この地から南約200m離れたところ(⑳守護所富樫館跡)にあるが、昭和42年(1967)、富樫館の存在を広く知らせるために、富樫卿奉賛会(現富樫氏頌徳会)と金沢工業大学がこの石碑を建立した。
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 住吉の宮(布市神社)(市史跡)〒921-8815野々市市本町2-14-6 
  住吉の宮(現布市神社)は、康平6年(1063)、富樫家国が野々市に館を構えた際、敷地内に社殿を造営したものと伝えられている。境内には、弁慶が投げたといわれる「弁慶の力石」や、明治22年(1889)富樫氏の事跡を後世に伝える石碑「富樫氏先業碑」がある。
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 守護所富樫館跡(市史跡)〒921-8813野々市市住吉町235-2 
  加賀国の守護富樫氏が構えた館跡で、中世における政治・経済・文化の中心となったところである。平成6年(1994)の発掘調査で館を囲む堀の一部を発見し、館の位置を知る貴重な手がかりとなった。現在は広場となって開放されている。
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 松任城跡〒924-0872白山市古城町42 
  松任城跡は、14世紀末~15世紀に、この地域を支配した松任氏の館跡と推測される。室町時代末~戦国時代に、一向一揆の門徒組織「松任組」の城として改築されたが、天正8年(1580)に織田方の攻撃により落城。その後、前田利長が居城し、現在の形状に改築され、慶長10年頃(1605)に廃城となった。※松任駅南口右側
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 槻橋城跡(市史跡)〒920-2104白山市月橋町ソ60-1 
  槻橋城跡は、「御蔵山」と呼ばれる尾根一帯に、土塁や空堀によって構成された中世の山城跡。「御蔵山」の語源は郭跡より、炭化米が出土したことから、米蔵があったとされることによる。室町時代、加賀国守護富樫氏の重臣槻橋氏の居城として伝わる。
■パンフレット「富樫氏と一向一揆史跡探訪マップ」掲載
 舟岡山城跡(市史跡)〒920-2113白山市八幡町亥83-1 
  舟岡山城跡は、元々本願寺若林長門守の城であったが、天正8年(1580)に織田信長の軍勢が一向一揆を一掃した際に落城したと伝えられる。その後、前田利家の重臣高畠定吉が慶長6年(1601)まで居城。城跡には石垣や土塁等が極めて良好に残る。
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 鳥越城跡(国史跡)〒920-2361白山市三坂町午20-1 
  鳥越城跡は、山内衆と呼ばれた白山麓の本願寺門徒が、織田信長と戦った加賀一向一揆最後の砦となった城跡。城主鈴木出羽守は頑強に抵抗したが、天正8年(1580)、柴田勝家らにより落城した。その後、織田方と山内衆との間で2ヵ年にわたり攻防が繰り広げられ、天正10年(1582) に掃討された。
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 二曲(ふとげ)城跡(国史跡)〒920-2368白山市出合町チ137-1 
  二曲城跡は、鳥越城跡の大日川対岸に位置し、「天文日記」に記されている「二曲右京進」の城と推測される。馬蹄形を呈する二つの尾根上に5つの郭と堀や土塁が築かれている。「信長公記」には「府峠にて蜂起あり」と記され、加賀一向一揆と織田勢の激戦地となった。
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 鳥越一向一揆歴史館〒920-2368白山市出合町甲26 
  国指定史跡鳥越城跡附二曲城跡のガイダンス施設で、発掘調査によって出土した遺物や鳥越城の立体模型等を展示している。また、マジックビジョンや映像シアターにより「一向一揆」という史実についてわかりやすく解説している。
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 伏越の理〒920-0937金沢市丸の内ほか 
  辰巳用水の導水技術として、隧道と並び高く評価されるのが、「伏越の理(逆サイフォン)」という原理です。これは、兼六園側から木管(後に石管に改修)を埋設して標高の低い石川門前の土手内を通り、対岸高台にある城内二の丸まで揚水するしくみで、江戸時代初めの優れた土木技術水準を示すものです。
  また、辰巳用水(東岩~兼六園)の平均勾配は、10m進んでわずか4cmと緩やかで、きわめて高い測量技術をもっていました。
■パンフレット「辰巳用水」掲載
 隧道(上流部)〒920-1304金沢市上辰巳町 
  上流部は、江戸時代の状態を最も良好に残しています。東岩取水口を起点とし、犀川浄水場に至る延長約4.8kmの区間のうち約4.6kmが丘陵斜面の岩盤層を掘った隧道(トンネル)となっており、幅約1.7m、高さ約2~2.6mで、断面が馬蹄形をしています。
■パンフレット「辰巳用水」掲載
 横穴(上流部)〒920-1304金沢市上辰巳町 
  隧道の壁面には約20~30m間隔で横穴が開口しています。この横穴は、隧道内の出入りや土砂の搬出、採光、換気に使われ、隧道工区を分割することにより工期短縮を実現させたと考えられます。
■パンフレット「辰巳用水」掲載
 タンコロ穴(上流部)〒920-1304金沢市上辰巳町 
  隧道内の壁面にはノミ跡のほか、水路底から約1~1.5mの高さに照明具を設置するための「タンコロ穴」と呼ばれる約10~20cmのくぼみが、約1.2~1.5m間隔で設置されています。
■パンフレット「辰巳用水」掲載
 三段石垣(上流部)〒920-1303金沢市辰巳町 
  上辰巳町付近には、三段石垣に代表される延長260mの石垣群が築かれています。辰巳用水が石垣最上面を流れており、付近の地盤がもろく崩れやすく、石垣前面はもともと犀川の河原だったことから、浸食を防止する施設と考えられます。
  江戸時代の絵図より19世紀初めにすでに築かれていたと考えられます。
■パンフレット「辰巳用水」掲載
 遊歩道(中流部)〒920-1302金沢市末町~錦町 
  犀川浄水場から錦町に至る延長約3.2kmで、うち2.9kmが開渠(開水路)となっており、沿線は果樹園、森林、竹林と変化します。堤部を利用した管理用道路が江戸時代から併走しています。大道割~錦町の約2km区間は、遊歩道として整備されています。
■パンフレット「辰巳用水」掲載
 下流部〒920-0939金沢市下石引町 
  錦町から兼六園に至る延長約3.0kmです。沿線は、昭和30年代から都市化が進み、一部を除き暗渠(蓋がされた水路)となっています。
  兼六園付近の石積み開渠は、隣接する土塀等とあいまって、城下町の伝統的都市景観を形成しています。
■パンフレット「辰巳用水」掲載
 土清水塩硝蔵跡〒920-0954金沢市涌波町・大桑町 
  涌波町付近には、万治元年(1658)に加賀藩が設置した土清水塩硝蔵跡があります。これは辰巳用水を動力源として原料を粉砕・混合した黒色火薬製造施設で、発掘調査により中心施設を囲んでいた堀や火薬原料を貯蔵していた硝石御土蔵の跡などが見つかりました。辰巳用水の関連遺構として、平成25年3月に敷地の一部が国史跡に追加指定されました。
■パンフレット「辰巳用水」掲載
 前田家墓所〒921-8104金沢市野田町野田山地内 
  前田家墓所は、金沢市の南東部、野田山丘陵にある野田山墓地の最高所にあり、金沢城からみるとほぼ南、直線距離3.5kmのところに位置しています。標高は最も高いところで約180m、東西に約400m、南北に約350mを測り、面積は86,294.35㎡を測ります。
  墓所内には、江戸時代に加賀・能登・越中三ヵ国約100万石を領有した歴代藩主を中心に、藩主正室、生母、子女ら計84基の墳墓が造られています。藩主墓は土を方形に3段重ねたピラミッド状の特徴的な形(方形三段築造)をしており、初代前田利家墓で一辺が約19m、以降の藩主墓で一辺約16mを測り、高さも5m以上あります。3代藩主利常墓以降の藩主墓は溝を周囲に巡らせて墓域を形成しています。
  江戸時代の墓所は仏式でしたが、前田家が明治7年に神式葬に転換したため、同10年に墓所も改められ、墳墓の正面に鳥居が建てられました。
  個々の墳墓の大きさ、墓所全体の面積ともに全国でも最大級の規模であり、まさに加賀百万石の大名家墓所として堂々たる威容を誇っています。
  藩主墓所の始まりは慶長4年(1599)に死去した利家の墳墓造営が契機となります。大坂において死去した利家は生前に遺言を残しており、野田山は自らの墳墓の地として指定しています。以降、歴代藩主の墳墓はこの地に造営され、近世大名家墓所として発展していきます。墓所は現在も祭祀行為が営まれており、まさに「生きた墓所」である点も大きな特徴といえます。
  このような大規模な墓所を継続的に造営し続けることができた背景としては、前田家が天正11年(1583)の利家の金沢入府から廃藩置県まで、加賀100万石の大名家であったことが大きな理由の一つであるといえます。
  前田家墓所は織田信長・豊臣秀吉の時代から現代に至るまでの墓所の変遷をたどることができるという特徴を持ち、その規模の大きさと独特の墳墓形態も含め、日本を代表する大名家墓所の一つとして極めて高い文化財的価値を有しています。加えて、我が国の大名家墓所が持つ多様性を如実に物語るものであるとも評価されました。このことから、高岡市の前田利長墓所とともに平成21年2月12日に国の史跡に指定されました。
■パンフレット「加賀藩主前田家墓所」掲載
 前田利長墓所〒921-8171富山県高岡市 
  富山県高岡市に加賀藩2代藩主前田利長の墓所があります。利長死去後の三十三回忌に3代藩主利常が造営したもので、2段築造の方形墓を築き、側面には蓮華図を彫刻した戸室石を貼りつけ、墳墓の周囲には方形の水堀が巡ります。方形段築の墳墓と周囲に方形の堀を持つという点から、野田山の前田家墓所と同様の造墓原理により築かれていることがわかります。また、墓所の西方約900mには利長の菩提寺である国宝瑞龍寺が位置します。
  前田利長墓所は加賀藩主前田家の葬送形態を知ることのできる貴重な史跡であるとして、野田山の前田家墓所とともに国史跡に指定されています。
■パンフレット「加賀藩主前田家墓所」掲載

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