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戦争中の1945年3月16日。当時の日本政府は「松根油等拡充増産計画」を閣議決定。全国の松から年間40万キロリットルの松根油を生産し、それを燃料にして航空機を飛ばそうという壮大な計画であった。
兼六園の松 200本もその対象になり、まず同年6月に53本の木から松脂が採取された。1昼夜で1本の木から1合半の松脂が取れたとのこと。
結局、全国17箇所ある製油所のうち15箇所が爆撃を受け、生成された松根油の量は計画を大きく下回る 500キロリットル。この松根油で航空機が飛んだ形跡もなかったそうです。
このときの「松根油等拡充増産計画」は、今も兼六園の「松の傷」として残ってます。
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